「ハリス」の誕生
代用チョコレートの歴史は幕末にまでさかのぼります。
アメリカ総領事として来日したタウンゼント・ハリスにちなみ、昭和25年(1948年)、森秋廣氏が開発した代用チョコレートは「ハリス」という名前で販売されました。
戦後の日本では甘いものが不足しており、この代用チョコレートは人々に大変喜ばれました。
森秋廣氏は、鐘淵紡績(後のカネボウ)本社で間借りしながら開発を進めました。
乏しい材料を工夫しながら作られた代用チョコレートは瞬く間に全国に広がり、戦後の菓子業界に新たな風を吹き込みました。
「ハリスガム」の誕生
昭和25年(1950年)、森秋廣氏は代用チョコレートの成功を受けて、今度は国産チューインガムの開発に挑戦します。
当時の材料の乏しい状況を乗り越え、酢酸ビニールを用いた本格的なチューインガムを作り出しました。
これが「ハリスガム」として販売され、大ヒットを記録します。
コマーシャルと大衆の支持
未だテレビ草創期であった昭和30年代
「名犬リンチンチン」という人気番組のスポンサーとなったハリスガムは、コマーシャルソング「バ・ハリスというリスどこにいる・・・」とともに全国的な知名度を獲得しました。
これにより、ハリスガムは日本全国で愛される商品となりました。
カネボウハリスからクラシエフーズへ
昭和41年(1966年)、森秋廣氏は自身の会社を鐘淵紡績に譲渡しました。
これにより「カネボウハリス」として商標が引き継がれます。
同社はその後も成長を続け、カネボウ食品、カネボウフーズを経て、現在のクラシエフーズへと発展しました。
クラシエフーズは現在、食品業界を代表する企業としての地位を確立しています。
森秋廣氏の功績
戦後の物資不足という困難な時代に、森秋廣氏が開発した代用チョコレートとチューインガムは、甘いものに飢えていた人々に大きな喜びをもたらしました。
特にチューインガムは、リグレー社の輸入品に依存していた日本において、初めての国産品としての地位を築きました。
代用チョコレートとチューインガムは、戦後の困難な時代を生き抜いた人々の記憶に刻まれ、今もなお日本の菓子文化の一部として親しまれています。
リグレー社によるチューインガムの普及
チューインガムは戦前に一時的に姿を消しましたが、戦後になって再び注目を集めるようになります。
進駐軍の米兵がガムを噛む姿が格好良く映り、それが若者たちの間で流行のきっかけとなりました。
しかし、この時点で日本国内でのチューインガム製造は進んでおらず、ほとんどが輸入品に頼っていました。
日本にチューインガムが広がったのは、大正5年(1916年)のことです。アメリカのリグレー社が輸入品として販売を開始しました。
東京・銀座を拠点に、モボやモガ(モダンボーイ、モダンガール)を中心とした都会の若者たちに支持され、全国へと広まっていきました。