日本のスイーツ界において、2010年代前半に大きな変革をもたらした現象があります。それが「ふわふわパンケーキ」ブームです。このブームは、単なる食の流行にとどまらず、新しいメディアや文化が複雑に絡み合い、日本のスイーツ文化を大きく進化させました。
まずはパンケーキとホットケーキの違い
「ふわふわパンケーキ」ブームを理解する上で、まず知っておきたいのが「パンケーキ」と「ホットケーキ」の違いです。私たちが日常的に使い分けているこれらの言葉ですが、実は同じ食べ物を指しています。
名称の由来
本来の正式名称は「パンケーキ」が正解です。ここでいう「パン」は、食パンのパンではなく、英語のフライパン(pan)を意味します。つまり、フライパンを使って焼くケーキであることから、「パンケーキ」と名付けられました。
「ホットケーキ」は日本独自の呼び方
では、なぜ日本では「ホットケーキ」という呼び方が定着したのでしょうか。これには、日本橋三越の食堂でパンケーキを提供した際の工夫が関係しています。パンケーキが日本に最初に伝わった時、店側は「パンケーキ」という名前では、食パンなどの「パン」とお客様が混同してしまう可能性があると考えました。そこで、熱々の状態で提供することから、より分かりやすいように「ホットケーキ」という名前で提供することにしました。この日本独特の命名が広まり、長年にわたって「ホットケーキ」が一般的な呼び方となったのです。
「ふわふわパンケーキ」ブームの始まり
2010年 エッグスンシングス日本上陸
「ふわふわパンケーキ」ブームの直接的な引き金とされているのが、2010年にハワイの人気店「エッグスンシングス(Eggs ‘n Things)」が日本に初上陸したことです。最初の店舗は原宿にオープンし、連日長蛇の列ができるほどの人気を博しました。
この時期は、ちょうどTwitterなどのSNSで食べ物の写真を投稿する習慣が定着し始めた頃でした。エッグスンシングスのボリューム満点で見た目にも魅力的なパンケーキは、まさにSNS映えする食べ物として注目を集め、この新しいメディアの力も借りて急速に広まっていきました。
2008年 ビルズの先行上陸
エッグスンシングスが日本に上陸する2年前の2008年、オーストラリアのシドニーにある「ビルズ(Bills)」が日本に上陸していました。ビルズは「世界一の朝食」という魅力的なキャッチフレーズで話題になりましたが、同店の看板メニューはスクランブルエッグであり、パンケーキが主力商品ではありませんでした。そのため、パンケーキブームの直接的な引き金としては、エッグスンシングスの方が適切とされています。
ホノルルマラソンとハワイブーム
エッグスンシングスの成功には、もう一つの背景がありました。それは、同時期に高まっていたハワイへの関心です。ホノルルマラソンの人気が日本で高まっており、多くの日本人がハワイに注目していました。この「ハワイブーム」が、ハワイ発のエッグスンシングスへの関心を後押しし、パンケーキブーム拡大の大きな原動力となったのです。
ブームの拡大と「パンケーキの聖地」
エッグスンシングスの成功に刺激を受け、ニューヨークから多くのパンケーキ店が日本に上陸しました。特に、原宿周辺は個性豊かなパンケーキ店がひしめき合い、「パンケーキの聖地」と呼ばれるまでになりました。
サラベス
2012年には、ニューヨークの「サラベス(Sarabeth’s)」が日本に上陸しました。「朝食の女王」という異名を持つサラベスは、アメリカの人気ドラマ「ゴシップガール(Gossip Girl)」に登場したことで、日本でも上陸前から注目されていました。新宿ルミネにオープンした日本1号店は、大きな話題となりました。
クリントン・ストリート・ベイキング・カンパニー
ニューヨーク・マガジンで「ニューヨークNo.1パンケーキ」に選ばれた「クリントン・ストリート・ベイキング・カンパニー(Clinton St. Baking Company & Restaurant)」も、2013年に南青山へ上陸しました。バターミルクをたっぷりと使ったしっとり生地と、メープルバターの組み合わせが多くのファンを魅了しました。
ブルックリン・パンケーキハウス
ニューヨークのブルックリンで生まれた「ブルックリン・パンケーキハウス(Brooklyn Pancake House)」は、2012年に表参道に店を構えました。ふっくらとした厚みのある生地は、ふわふわで口溶けがよく、おしゃれな表参道で大きな話題となりました。
日本のブランドも参入
海外ブランドの上陸だけでなく、日本発のパンケーキ専門店も続々と登場し、ブームを盛り上げました。ハワイから上陸した「カフェカイラ」とともに、日本独自のブランドとして「レインボーパンケーキ」などがオープンしました。
これらの店舗が原宿周辺に集中したことで、このエリアはパンケーキ愛好家にとって特別な場所、「パンケーキの聖地」として確立されていったのです。ました。
パンケーキの進化と文化の定着
ブームが進むにつれて、パンケーキは単なる流行を超え、独自の進化を遂げ、日本のスイーツ文化に確固たる地位を築きました。
アシェット・デセールのような進化
初期のふわふわパンケーキブームでは、その軽やかな食感が最大の特徴でした。しかし、ブームが進むにつれて、単なる食感だけでなく、見た目の華やかさにもより一層力が入れられるようになりました。各店は次第に創意工夫を凝らし始め、様々なフルーツやクリーム、ソースとの豪華な組み合わせを提供するようになりました。これは、フランス料理における「アシェット・デセール(assiette dessert)」、つまり「皿盛りデザート」の感覚に近いものでした。一つの皿の上に、メインのパンケーキを中心として、色とりどりのフルーツ、様々な種類のクリーム、美しいソースの装飾などが芸術的に配置され、まさに食べるアート作品のような仕上がりとなったのです。
専門的な情報発信者の登場
このブームの広がりは、専門的な情報発信者の登場によってさらに加速されました。「パンケーキブロガー」と呼ばれる、パンケーキ専門の情報を発信する人々が現れ、新店舗の情報や詳細なレビュー、美しい写真などを通じて、ブームを牽引する役割を果たしました。これらのブロガーたちの存在により、パンケーキ愛好家のコミュニティが形成され、情報交換が活発に行われるようになったのです。
現在のパンケーキ
こうして、2010年代前半に始まった「ふわふわパンケーキ」ブームは、単なる一時的な流行を超えて、日本のスイーツ界に確固たる地位を築きました。今日では、パンケーキは高いファッション性を持つスイーツとして認識され、スイーツ業界の重要な一角を占める存在となっています。従来のホットケーキとは全く異なる、洗練された現代的なスイーツとして、多くの人々に愛され続けているのです。このブームの成功要因を振り返ると、海外の有名店舗の戦略的な日本進出、SNSの普及というメディア環境の変化、ハワイブームという文化的背景、そして日本の職人気質による技術的な発展と創意工夫が見事に組み合わさった結果であることが分かります。