菓祖神(田道間守)とは?神話から辿る日本の菓子の歴史

あらゆる分野には独自の歴史と足跡があり、洋菓子の世界も例外ではありません。

この甘く魅力的な文化が長い年月をかけてどのように発展し、日本に伝わり、現代の私たちに親しまれるようになったのか。

洋菓子がどのようにして日本に伝わり、そして様々な時代の試練を乗り越え、ここまで親しまれるようになったのか。

その道のりをまずは神話の時代から、少しでもわかりやすくお伝えしたいと思います。

目次

日本文化の歴史の奥に神話あり

洋菓子のふるさとであるヨーロッパには長い歴史があります。その中で培われた技術や文化は深く豊かなものです。しかし、それを受け入れた日本もまた、非常に長い歴史と独自の文化を持っています。

ヨーロッパにはギリシャ神話のように語り継がれてきた物語がありますが、同様に日本にも太古から伝わる神話があります。これらの神話は、『古事記』や『日本書紀』という古典に記されており、天地創造から神々の登場、人々の生活に至るまでが詳細に描かれています。

日本列島は「蜻蛉島(あきつしま)」や「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、多くの神々が生まれた地として描かれています。この神話に登場するイザナギとイザナミの物語では、日本列島の誕生が描かれ、後に九州や出雲、大和といった地域に小さな国家が形成されていったことが伝えられています。

さらに、その後の神武天皇の東征によって、これらの地域が一つにまとめられ、現在の日本の基礎となる国家が築かれました。この出来事は紀元前660年に「建国元年」とされ、日本の歴史の重要な節目となっています。

日本の神話には、神々の世界と人間の世界が曖昧に交わる部分が多く見られます。この曖昧さや緩やかな境界が、どこかロマンティックな雰囲気を醸し出しており、日本の神話が持つ独特の魅力と言えるでしょう。

日本に洋菓子文化が根付いた背景

八百万の神とは | やすらか庵
  • 縁結びの神様
  • 交通安全を守る神様
  • 安産祈願の神様
  • 厄除けの神様
  • 受験合格の神様
  • 商売繁盛の神様 などなど

現代の私たちの生活を見渡すと、こうした神話の中で日本では無数の神々が生まれています。

これがすなわち、「八百万(やおよろず)の神」です。

多様な神様の存在は私たちをさまざまな面で支え、日本の文化や精神性にも大きな影響を与えてくれました。

このような信仰の豊かさと多様性こそ、日本独自の文化的な特長と言えるでしょう。

洋菓子という甘美な文化が日本に深く根付いた背景には、まさにこの豊かな文化的多様性と受容性が大きく影響しているのかもしれません。

お菓子の神様「菓祖神」の誕生

上記のように日本には、古くからさまざまな神様が祀られています。

その中には「菓祖神(かそしん)」と呼ばれるお菓子の神様がいるのをご存じでしょうか。

ここからは菓祖神がどのようにして誕生し、どんな歴史を歩んできたのかをご紹介します。

菓祖神はいつどこで生まれたのか

菓祖神の物語は今から約2000年前にさかのぼります。

西暦61年頃、ローマ帝国が最盛期を迎えていた西欧と同じ時代に、日本でも一つの壮大な物語が生まれました。

その舞台となったのは現在の兵庫県にあたる但馬の地です。

ここには、現在の朝鮮半島南部に位置する新羅(しらぎ)の王子である天日槍(あめのひぼこ)の子孫が住んでいました。

彼は「田道間守(たじまもり)」と名乗っており、この田道間守こそがのちに菓祖神と呼ばれる存在です。

田道間守の人生

田道間守は第11代垂仁天皇の命を受け、常世国(現在の朝鮮半島の一部)へと旅立ちます。

その目的は不老不死の仙薬とされる「非時香果(ときじくのかぐのこのみ)」を手に入れることでした。

非時香果とは一年中実をつける特別な果実を指しており、現在では「橘(たちばな)」と考えられています。

この果実を求めて田道間守は10年もの歳月を費やし、ついに使命を果たして日本に戻ってきました。

しかし、彼が帰国した時には、最も報告したい相手である垂仁天皇はすでに崩御されていました。

深く悲しんだ田道間守は天皇の陵(みささぎ)の前に伏して慟哭し、その後、食を絶ち自ら命を絶ったと伝えられています。

非時香果

田道間守が持ち帰った非時香果(橘)は現在の柑橘類の祖先とも言われています。

橘は夏に実をつけて秋から冬にかけても木になり続けることから、縁起物として正月飾りに用いられるようになりました。

季節を問わず実をつけ続ける特性を持ち、その姿が「時を超える」という意味を象徴しています。

田道間守が菓祖神と呼ばれる

大正時代初期になると田道間守の伝承が再評価されました。

そして彼が持ち帰った非時香果が「お菓子」の起源であるとの解釈が広まったのです。

当時のお菓子は「果子」と書き、木の実や果物を指しています。

このことから、田道間守はお菓子の始まりを象徴する存在として「菓祖神」とされました。

また、彼の忠誠心や使命感が評価され、初の忠臣としても崇められるようになります。

このようにして、田道間守はお菓子業界の守護神として定着したのです。

菓祖神が祀られる神社

現在、菓祖神として田道間守が祀られているのはこの2つの神社です。

  • 中嶋神社(兵庫県豊岡市)
  • 橘本神社(和歌山県海南市下津町)

それぞれの神社はこぢんまりとしていながらも趣深い雰囲気を醸し出し、訪れる人々に感動を与えてくれます。

田道間守の物語は日本の歴史や文化に深く根付いており、彼の伝説は古来よりお菓子の発展に大きく寄与してきました。

機会があればぜひこれらの神社を訪れ、その歴史と由来に触れてみてはいかがでしょうか?

中嶋神社(兵庫県豊岡市)

中嶋神社は菓祖神を祀った神社として有名です。

地元の豊岡のお菓子屋さんはもちろん、全国の有名製菓メーカーや京都の老舗和菓子店もこの神社をお詣りに訪れます。

ぜひお詣りして、田道間守の偉大な歴史とそのご神徳に触れ、その後は豊岡の素晴らしいスイーツを楽しんでみてください。

神事

神事は毎年、田道間守の命日に近い4月の第3日曜日に神事が行われます。

全国から製菓関係者が訪れて御献菓を奉納して、田道間守のご神徳に感謝を捧げるとともに、菓業の発展や招福が祈願されます。

また、豊岡市立神美小学校の児童による文部省唱歌「田道間守」の歌唱奉納も行われます。

菓子祭例祭の前日には「菓子祭前日祭」として、JR豊岡駅近くの「豊岡駅通商店街・大開通り」で2011年から2023年の第11回までイベントは開催されました。(第11回で終了しました)

このイベントは毎年25,000人以上の来場者が訪れる町を挙げての一大イベントです。通りは歩行者天国となり、多くの菓子店が出店されました。

橘本神社(和歌山県海南市下津町)

橘本神社

橘本神社もまた、田道間守を祀る由緒ある神社です。

この神社の近くには、田道間守命が持ち帰った橘の苗木を植えたとされる「六本樹の丘」(みかん発祥の地)の遺跡もあります。

橘は現在のミカンの原種であり、改良を重ねられて多くの人々に愛される果物となりました。このため、この地は「みかん発祥の地」としても有名です。

また、紀州地方は日本の柑橘類の一大生産地でもあります。

毎年4月3日には全国から150社以上の菓子業者が集まり、銘菓を奉献する全国銘菓奉献祭(菓子祭)が開催。

さらに10月にはみかん祭りが盛大に行われ、県内外の柑橘業者や果物業者が多数参拝し、渡御、獅子舞、投餅などの伝統的な行事が行われます。


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