不二家創業者「岩田林右衛門」の生い立ち
岩田林右衛門は明治18年(1885年)に愛知県で生まれました。
6歳で藤井家の養子となり、逆境を乗り越えて明治33年(1900年)に横浜へ移り住みます。
15歳で鋼鉄商「杉浦商店」に奉公し、10年間の修業を経て菓子業界へと転身しました。
当時、横浜は西洋文化の中心地であり、ハイカラな雰囲気に触れた岩田氏は西洋菓子に新たな夢を抱きました。
この経験が後の不二家創業につながります。
「不二家」の創業
明治46年(1910年)、岩田氏は横浜元町にささやかな西洋菓子店を開業し、不二家が誕生しました。
「不二家」という名前には日本一の富士山を連想させると同時に、「ふたつとない家」という意味が込められています。
この屋号には独自性を追求し日本一を目指す岩田氏の強い信念が表れています。
開業当初は小規模ながらも質の高い商品を提供し、地元で徐々に評判を得るようになりました。
不二家が人気になった理由
喫茶室を設けた
岩田氏は店舗内に喫茶室を設けるという画期的なアイデアを実現しました。
当時の洋菓子店では日持ちする焼き菓子が主流で、お店で着席してすぐに食べるスタイルは珍しかったのです。
不二家ではシュークリームなどの生菓子を提供して、この新鮮さが顧客の注目を集めました。
また、一律三銭という手頃な価格設定もあり、幅広い層に支持されました。
小さな店舗ながらも質の高い接客と商品で不二家は着実に顧客を増やしていきます。
渡米してアメリカ菓子文化を吸収した
大正元年(1912年)、岩田氏は新たな視点を求めて渡米しました。
アメリカ各地で洋菓子や喫茶文化を学び、自らの事業の方向性を確認します。
この視察によりアメリカ特有の「ソーダ・ファウンテン」スタイルの喫茶に魅力を感じ、その導入を決意しました。
帰国後はこのスタイルを日本に持ち込み、洋菓子と喫茶を融合した新しい文化を広める基盤を作ります。
レジスターの導入した
渡米の際、岩田氏はレジスターを持ち帰って店舗に設置しました。
当時、日本ではまだ珍しかったこの機械を使用することで明朗会計を実現。
この新しい経営スタイルは話題を呼び、不二家の人気をさらに高めました。
レジスターの導入は洋菓子の品質だけでなく店舗運営にも注力した岩田氏の先見性を示しています。
支店を増やした
大正11年(1922年)、横浜の伊勢佐木町に支店を開設しました。
これは不二家の拡大戦略の第一歩であり、横浜におけるブランドの確立を進める重要な転機となりました。
この支店もまた喫茶文化と洋菓子の楽しさを地域に広める役割を果たし、顧客の信頼を得る誠実な経営方針が着実に支持を拡大していきました。
銀座への進出、そして全国展開へ
翌年の大正12年(1923年)、岩田氏は東京銀座に店舗を開きます。
この出店は洋菓子文化を全国に広めるための重要なステップでした。
銀座への進出により、不二家は全国的な知名度を獲得し、さらに成長の基盤を築いていきます。
こうして銀座不二家は品質と先進性で注目を集め、日本一を目指す店舗として定評を得たのです。
まとめ
不二家は岩田氏が掲げた「ふたつとない家」という理念を基に日本の洋菓子文化を大きく発展させました。
喫茶文化と洋菓子を融合した不二家の取り組みは当時の人々に新しい楽しみを提供しました。
また、アメリカから学んだ洋菓子の明るさや楽しさを広めることで、日本中に洋菓子の魅力を伝える先駆者としての役割を果たしました。
不二家は今も多くの人々に愛され続けています。