あんぱんを誕生させた木村安兵衛親子
「あんぱん」といえば、日本人にとって馴染み深い菓子パンですが、その誕生には木村安兵衛親子の努力と工夫があります。
木村安兵衛は明治の初め、西洋文化が入り始めた日本で、新しい食文化を生み出すために奮闘しました。
木村安兵衛
木村安兵衛は茨城県出身の元士族です。
明治維新で職を失った後、東京に移り住み、新しい道を模索しました。
当初は授産所で技能教育や就労支援を行っていましたが、西洋のパンに可能性を見出します。
あんばんを誕生させた木村屋
「これからはパンだ」と直感した木村安兵衛は長崎でパン製造を学んだ梅吉を雇い、息子の英三郎とともに東京芝・日陰町でパン屋「文英堂」を創業。
しかし、この店は火災で焼失してしまい、新たに銀座尾張町(現在の銀座5丁目)に「木村屋」として再スタートを切ることになりました。
菓子パンを開発
木村親子は日本人に馴染みのないパンを普及させるために甘みを加えた「菓子パン」を開発しました。
それを新橋駅構内で販売を開始すると大評判。これは日本初の「キオスク販売」の先駆けともいえる試みです。
当時、日本の都市部では白米の主食化により脚気が広がっている中で木村屋のパンが脚気予防に役立つとの評判が立ち、日本海軍の遠洋航海や西南戦争でも重宝されました。
この出来事は、パンが日本人の生活に広く普及するきっかけともなっています。
酒種パンとあんぱんの発祥起源
木村安兵衛の息子、英三郎はさらに研究を重ね、日本人にもっと馴染みやすいパンの開発に取り組みました。
英三郎は西洋パンで使われているホップ(ビール酵母)の代わりに、日本人が馴染みのある酒種(酒造りに使う酵母)を使うことを思いつきます。
この酒種によるパンは日本人の味覚に合って大成功。さらに英三郎は、和菓子に使われる小豆餡をパンに包むという新しい発想を形にします。
これが1874年(明治7年)、日本パン史に残る「あんぱん」の誕生です。パンの中に餡を包むことでパンは一気に和菓子のような親しみやすさを得ました。
木村屋の名が広まるきっかけ
翌年、山岡鉄舟の助言を受けて、桜の花の塩漬けを中央に埋め込んだ「桜あんぱん」が開発されました。
これは餡の甘みと桜の塩味が絶妙に調和した一品で、明治天皇にも献上され、大変喜ばれました。
この出来事は木村屋の名を全国に広めるきっかけとなり、山岡鉄舟は木村屋の功績を讃え「木村家」と書かれた額を贈ったのです。
この額は長らく木村屋の家宝とされていましたが、関東大震災で焼失しています。この時、三代目当主の木村儀四郎は被災者にパンを無料で配るため、焼け残るリスクを顧みずパンを焼き続けたといいます。
現代のあんぱんと木村屋
現代のあんぱんは、日本全国で親しまれる定番の菓子パンとして多くのパン屋やコンビニで販売されています。
創業者木村安兵衛の理念を受け継ぐ木村屋總本もまた、伝統の味を守りながらも時代に合わせた新商品の開発を続けています。
特に銀座にある木村屋總本店本店は、酒種酵母を使った「元祖あんぱん」や「桜あんぱん」といった歴史的商品を提供し続けており、日本のパン文化を体現する存在とも言えるでしょう。
その独自の製法と品質は多くの人々に愛され続けており、木村屋は今もなお日本のパン業界を牽引する老舗として確固たる地位を築いています。