日本でビスケットが普及するまでには長い歴史と努力がありました。
その中心には両国の米津風月堂が果たした大きな役割があります。
ここではビスケット製造の始まりから、その後の活躍までを分かりやすく紹介します。
目次
ビスケットの発祥起源
米津風月堂の当主「米津松造」はある日舶来のビスケットを「バタ臭い」として仏壇に供えていました。
しかし、幼い息子たちがそのビスケットを食べて「おいしい」と言ったことがきっかけで、ビスケットの研究を始めることになります。
そして明治8(1875)年、日本初の本格的なビスケット製造に成功しました。
日本で初めての製菓の機械化
明治13(1880)年、米津風月堂はイギリスから蒸気エンジンによるビスケット製造機を輸入しました。
これにより日本で初めての製菓の機械化が実現します。
1日で1か月分の製品を作るほどの大量生産が可能となり、それは販売が追いつかないという問題が発生するほどの生産量となりました。
しかし、技術の習熟とともに需要も増加していき、機械化は大きな成功を収めました。
戦争とビスケット
日清戦争では、米津風月堂が焼く軍用ビスケットの生産量は東京全市の菓子屋やパン屋の総生産量に匹敵するほどでした。
ビスケットは保存性が高く携帯性にも優れていたため、兵士たちの食料として重要視されていたのです。
続く日露戦争でも米津風月堂はフル稼働で軍用ビスケットを製造し、軍部に供給しました。