コンフィズリーとは?発祥起源、日本に伝わった時期

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コンフィズリーとは

「コンフィズリー (Confiserie)」とは、フランス語で「糖菓」や「砂糖菓子」を意味します。具体的には、砂糖やチョコレートを主な材料としたお菓子全般です。砂糖の他にもチョコレートやナッツ、フルーツなどを使用して多様な製品が作られます。また、フランスをはじめとするヨーロッパでは、特に高級菓子として扱われることが多いです。

主なコンフィズリーの種類

キャンディー

砂糖を煮詰めて作る硬い飴やソフトキャンディー。

チョコレート菓子

一粒チョコレートやリキュールボンボンなど。

キャラメル

牛乳やバターを使った濃厚な砂糖菓子。

マジパン

アーモンドと砂糖を練り合わせたもの。

ヌガー

蜂蜜やナッツを使った砂糖菓子。

日本におけるコンフィズリー

日本でコンフィズリーは、素材や技術にこだわった高品質なお菓子を象徴する言葉として使われています。1926年、ヒョードル・モロゾフ氏が神戸に「Confectionery F. Morozoff」という店を開いたことが「コンフィズリー」が広まるきっかけとなりました。このお店はチョコレートやキャンディーに特化し、日本初の本格的なコンフィズリー・ショップとされています。

1925年 ヒョードル・モロゾフ氏の挑戦

ヒョードル・モロゾフ氏は、1880年にロシアのシンビルスク近郊のチュレンガという村で生まれました。大正6年(1917年)、ロシア革命による混乱から逃れるため、彼は息子ヴァレンティンを含む家族と共にロシアを離れました。そして、大正14年(1925年)に神戸へたどり着きました。

当時、亡命者が日本で選べる職業は限られており、多くのロシア人が羅紗(羊毛生地)の商売をしていました。モロゾフ氏も羅紗商を試みましたが、日本にはまだ美味しいチョコレートが存在しないことに気づき、これを事業の基盤とする決意をしました。

1926年 日本初のコンフィズリー・ショップ

モロゾフ氏が注目したのは日本に「一粒チョコレート」と呼ばれるナッツやクリームを使用した本格的なチョコレート菓子がなかった点です。彼は神戸のトアロードに店舗を借り、大正15年(1926年)に「Confectionery F. Morozoff」の文字を掲げたショーウィンドウを開きました。これが日本初のコンフィズリー・ショップの誕生です。

当時の神戸には、関東大震災の影響で横浜から移住したドイツ人のカール・ユーハイムやフロインドリープが洋菓子店を営んでいました。彼らは郷里のドイツに倣い、ケーキ類やパン、チョコレート、キャンディーなどを幅広く手掛けていました。一方、モロゾフ氏と息子のヴァレンティンは、チョコレートやキャンディー類を主力商品としました。

ウィスキーボンボンの誕生

ある時、ヒョードル・モロゾフ氏の店に来たお客様がリキュールボンボンについて質問しましたが、当時の日本ではリキュールなんて馴染みがなく、説明するのも一苦労。そこで彼は「まぁ、ウィスキーみたいなものですよ」とさらっと答えました。この絶妙な一言で、それ以降、中にどんな洋酒が入っていても「ウィスキーボンボン」と呼ばれるようになりました。未知のものを分かりやすく伝えるために工夫するのは開拓者ならではの苦労ですが、そのおかげで新しい文化が広がるのだから、さすがです。

1931年 モロゾフ製菓株式会社の設立

昭和6年(1931年)、ヒョードル氏は葛野友穂氏らと共に「神戸モロゾフ製菓株式会社」を設立しました。同社は徐々に発展しましたが、様々な事情からモロゾフ父子は昭和11年(1936年)に退社し、新たに「ヴァレンティン洋菓子店」を開きました。しかし、第二次世界大戦の戦火により、この店は壊滅しました。

コスモポリタン製菓

戦後、モロゾフ父子は「コスモポリタン製菓」として再出発を果たしました。彼らが築いた本格的なコンフィズリーの文化は、日本の菓子業界に多大な影響を与えました。一方、葛野氏が率いる「神戸モロゾフ製菓」は成長を続け、後に「モロゾフ株式会社」として日本のスイーツ市場を席巻する存在となりました。

まとめ

コンフィズリーは砂糖やチョコレートを主材料とする高級菓子で、ヒョードル・モロゾフ氏が1926年に神戸でその文化を広めたことで日本の洋菓子業界が発展しました。ヒョードルとヴァレンティン父子の取り組みは、日本における洋菓子文化の基礎を築き、現在の日本の甘味文化においても確固たる足跡を残しています。

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