フランス菓子はパティスリー・フランセーズやフレンチ・ペストリーとも呼ばれ、美食文化の象徴として世界中で愛されています。
古来、お菓子に関する話題ではなぜか”フランス”という言葉が冠されることが多いです。
その理由としては、フランスが美食文化の中心であり、特にブルボン家のルイ王朝時代にその栄華を極めたことが挙げられており、日本においてもフランス菓子は特別な地位を築いています。
その歴史をたどると、明治時代に重要な転機がありました。今回は、フランス菓子が日本にどのようにして伝わり、日本文化に根付いていったのか、その経緯を詳しくご紹介します。
日本におけるフランス菓子の始まり
日本でフランス菓子が初めて作られたのは明治時代のことです。
その中心人物は「村上光保」という人物でした。
光保は京都に生まれ、御所での職務を経て、東京に移住しました。彼は明治天皇の命によって西洋文化の導入が進められた際、横浜のフランス人「サムエル・ペール」のもとでフランス菓子作りの技術を学んだのです。
また、フランス菓子が日本に浸透した背景には、明治天皇の影響も大きく関わっています。
フランス料理やフランス菓子を宮中行事に採用することで、フランス文化が日本における”洗練”の象徴として認識されるようになりました。
村上光保とサムエル・ペールの出会い
明治3年、明治天皇の指示により、宮中での宴席にはフランス料理が採用されることが決まりました。
これに伴い、光保は大膳職としてサムエル・ペールの下に派遣され、西洋菓子の技術を習得します。
ペールは横浜で西洋菓子店を営むフランス人で、光保は彼から直接指導を受けました。
この経験により、光保はフランス菓子の本格的な技術を身につけたのです。
日本初のフランス菓子店の誕生
光保は明治7年、東京麴町に”開新堂”を開業しました。
これは日本初の西洋菓子専門店であり、文明開化を象徴する存在でした。
当初は彼の妻・茂登の名義で運営されていましたが、後に光保自身が製菓業に専念しました。
開新堂の成功と発展
開新堂ではデコレーションケーキや洋風工芸菓子、氷細工など多岐にわたるフランス菓子が提供されました。
その技術力と美しさから、光保は”名人”と称されるようになります。特に宮中行事や大規模なイベントでは、開新堂のフランス菓子が欠かせない存在となりました。
明治時代におけるフランス料理とフランス菓子の導入は、日本の食文化に大きな影響を与え、今日の洋菓子ブームの基盤を築いたのです。
村上光保が学んだフランス菓子の技術は、日本のスイーツ文化の中核を形成したと言えます。彼が残した技術や理念は、数多くの製菓職人に受け継がれ、現在の日本の洋菓子文化の礎となっています。
現代の日本とフランス菓子
今日の日本ではフランス菓子は高級菓子店やパティスリーで日常的に見られる存在となっています。
マカロンやエクレア、ガトーショコラなどなど、フランス菓子のメニューはいたるところで目に入ります。
また日本では、フランス菓子の伝統的な技術を基に抹茶や和栗など日本独自の素材を取り入れたアレンジも進んでいます。
フランス菓子が日本にやってきてから今日まで、さらに幅広い層に親しまれるようになっています。
まとめ
フランス菓子が日本にもたらされた歴史は明治時代に始まりました。
村上光保がフランス菓子の技術を学び、日本初の西洋菓子店を開業したことで、その文化は広がりました。
現在では、日本のスイーツ文化の一部として定着し、多くの人々に愛されています。
その背景には、フランス菓子の持つ美しさと味わい、そしてそれを支えた先人たちの努力があるのです。