乾パンとは、非常時の備えとして知られる保存食の一つです。
見た目は小さな角形で硬く、噛み応えがあり、長期間保存が可能です。
乾パンは、単なる保存食にとどまらず、戦争や災害の歴史の中で人々の命をつないできた背景を持ちます。
本記事では、乾パンの起源からその進化、そして現代の様子までしっかりと解説します。
乾パンとは

乾パンとは、長期保存が可能な堅焼きパンの一種で、主に非常食や兵糧として利用される食品です。日本では江戸時代後期から幕府や各藩が兵糧としての研究を進め、昭和時代には戦時中の保存食として多くの国民に親しまれました。特に三立製菓が1937年から製造を開始した「カンパン」は広く普及し、現在では災害時の備蓄用食品としても重要視されています。現代の乾パンは、昔に比べて味や食感が改良され、非常食としてだけでなく手軽に楽しめる食品へと進化を遂げています。
第一章:乾パンの発祥起源【江戸時代】
乾パンのルーツは、江戸時代後期にまでさかのぼります。
江戸幕府や各藩は、大坂の陣(1614〜1615年)を含む戦乱を経て、再び戦が起こることを想定し、保存性の高い兵糧の必要性を痛感していました。
当時の主食である米は湿気や腐敗に弱く、長期保存に向いていません。戦地では火を使う調理も困難だったため、乾燥食品や加工食品の開発が急務となりました。
このような背景から、各藩では独自に保存食を研究し始めます。
江川太郎左衛門英龍の研究
幕府では、伊豆韮山の代官であった江川英龍(えがわ ひでたつ)がパンの研究を行ったことで知られています。英龍は西洋の軍事技術に強い関心を持ち、兵糧としてのパンに注目しました。
彼は小麦粉を使い、保存性の高いパンの試作を進めましたが、当時の技術や材料事情では、大規模な製造や軍用利用には至りませんでした。
それでも、日本におけるパン文化の基礎を築いた功績は大きく、後の乾パン開発への思想的な土台となったと評価されています。
各藩の工夫と兵糧
- 薩摩藩の「蒸餅(むしもち)」
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米粉を蒸して固めた保存食。水を加えてもどすことで簡単に食べられたため、実用性が高かったとされます。
- 長州藩の「備急餅(びきゅうもち)」
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詳細な製法は不明ながら、保存性を重視した携帯用の餅だったと考えられます。
- 水戸藩の「兵糧丸(ひょうろうがん)」
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直径4〜5cm、中央に穴の開いたドーナツ状の保存食。穴に紐を通して持ち運びやすくし、表面積を広げることで乾燥しやすくするなど、機能的な工夫が見られます。
これらの兵糧は現代の乾パンとは形状も素材も異なりますが、「日持ち」「携帯性」という目的は共通しており、乾パン開発の原点といえます。
第二章:軍用食としての乾パン【明治時代 】
明治時代、日本は西洋の技術や制度を取り入れながら「近代国家」へと急速に成長していきました。
その中で軍隊の仕組みも大きく変わり、兵士の食事、つまり「兵食(へいしょく)」のあり方も見直されることになります。
特に大きな転機となったのが、日露戦争(にちろせんそう)の開戦です。この戦争が、乾パンという保存食を日本の軍隊に定着させるきっかけとなったのです。
戦争には保存食が必要
1904年に始まった日露戦争は、ロシアという大国と日本の戦いです。戦場は現在の中国東北部や朝鮮半島北部など、遠く離れた地で行われました。
このような遠い場所で戦うためには、兵士に食べものを安定して届ける方法(=兵站:へいたん)がとても重要でした。
当時の日本軍は現地でお米を炊いて食べる「炊飯(すいはん)」が基本。しかし、戦場では火を使うのがとても危険です。煙が出れば敵に見つかるおそれもあり、ゆっくりご飯を炊いている時間もありませんでした。
また、天候が悪かったり、道がぬかるんで輸送車が動かなくなったりすると、食料が前線まで届かなくなることもありました。
そのため「すぐ食べられて、持ち運びやすく、腐らない食べもの」がどうしても必要だったのです。
欧米から学んだ「火を使わずに食べられる兵食」
当時、イギリスやドイツ、アメリカなどの軍隊では、乾パンや缶詰などの保存食がすでに広く使われていました。
これらの国の兵士たちは、火を使わずにすぐ食べられるような食べ物を持って戦場に向かっていたのです。乾パンは水分をほとんど含まないため、カビが生えにくく、何ヶ月も保存できます。
日本軍もこうした海外の例を学び「自分たちでも乾パンのような保存食を作る必要がある」と考えるようになりました。
軍用乾パンの誕生
このとき大きな役割を果たしたのが、銀座の有名なパン屋「木村屋總本店(きむらやそうほんてん)」の三代目、木村儀四郎(きむら ぎしろう)という人物です。
儀四郎は、あんぱんを考案した初代・木村安兵衛の孫にあたり、木村屋の伝統を受け継ぐ職人として知られていました。
安兵衛が1875年、山岡鉄舟のすすめで明治天皇にあんぱんを献上したことで、木村屋の名は全国に広まりました。その後を継いだ儀四郎は、製パン技術をさらに発展させ、軍の要請に応じて乾パンの開発に取り組むことになります。
明治政府や軍からの依頼を受けた儀四郎は「火を使わずに食べられ、長期間保存できるパン」の開発に取り組み、そして、彼が設立した会社「東洋製菓(とうようせいか)」で、何度も試作を重ねます。
そして完成したのが、日本で初めて本格的に軍用を想定して製造された乾パンです。この乾パンは、日露戦争の前線に送り込まれ、炊事の手間を省きつつ、兵士の空腹を満たす重要な糧となりました。
日露戦争で乾パンが大活躍
木村儀四郎が開発した乾パンは、単なる軍用食の域を超え、のちの保存食や防災食、遠足・登山などの携行食としても広く活用されるようになります。
また、この乾パンは戦場での食事のあり方を根本から変えました。兵士は火を使わずに即座にエネルギーを補給でき、補給線が切れても一定期間の自活が可能となりました。
これは士気の維持にも直結する、非常に重要な成果です。
第三章:一般家庭に広まる乾パン【昭和時代】
昭和時代に入ると、日本は二度の大きな戦争(第一次世界大戦、そして第二次世界大戦)を経験します。
とくに昭和の中頃、1930年代後半からは戦争の影が日本社会全体に広がっていきました。戦争中は農作物の生産が落ちたり、外国からの輸入が止まったりして、食べ物が手に入りにくくなる状況が生まれます。
乾パンは小麦粉をこねて焼き上げ、水分をしっかり飛ばしてあるため、腐りにくく、何か月も保存できるのが特長です。火を使わずにそのまま食べられるので、調理の手間もかかりません。
この乾パンは軍隊だけでなく、一般の家庭でも食べられる重要な食糧として広まっていきました。
三立製菓が作った「カンパン」
この時代に登場し、乾パンの存在を日本全国に広めたのが、1921年(大正10年)に静岡県浜松市で創業された「三立製菓(さんりつせいか)」という会社です。
当初はビスケットやクッキーなどを作っていましたが、昭和12年(1937年)から乾パンの製造を本格的に開始します。そして同社が開発・販売した乾パンは、商品名を「カンパン」と名付けて販売されました。
この「カンパン」という名前が広く知られるようになり、やがて“乾パン”そのものの代名詞のような存在になっていきます。三立製菓のカンパンは、品質の高さや製造量の多さから、軍隊や官公庁が採用する公式な保存食にもなりました。
カンパンは命をつなぐ食べ物
1941年、太平洋戦争が始まると、日本は一層厳しい食糧事情に直面します。農地は戦地に変わり、輸送手段も不足。多くの国民が食べる物に困るようになります。
このような非常時に、乾パンは以下のような理由で重宝されました。
- 長期間保存できる(カビが生えにくい)
- 火を使わずに食べられる(炊事の手間がいらない)
- 持ち運びしやすい(軍隊や避難の場面に便利)
- 基本的な栄養がある(小麦由来のエネルギー源)
この時期の乾パンは、現在ほどおいしくはありませんでした。
非常に固く、味もシンプルなものでしたが「命をつなぐ食べ物」として確実な価値があったのです。学校給食にも使われることがあり、子どもたちにとっても貴重な栄養源でした。
第四章:おやつ、防災食の乾パン【現代】
平戦後、日本は平和を取り戻し、食べ物にも少しずつ余裕が生まれました。
これに伴って、乾パンも「非常時の食べ物」から「おやつ」や「携帯食」としての価値を広げていきます。
技術の進歩により、下記のような工夫が行われ、乾パンは「保存食だけど美味しい」という評価も受けるようになります。
- 焼き方、硬さを調整
- 香ばしさを加えるレシピ
- ゴマや砂糖を入れた味の工夫
三立製菓の「源氏パイと缶入りカンパン」
乾パンで実績を積んだ三立製菓は、ここから新しいお菓子の開発にも力を入れました。
1969年(昭和44年)には「源氏パイ」を発売。ハート型のパイ菓子で、バターの香りが豊かなおやつ。現在でもスーパーやコンビニで見かける定番商品です。
1972年(昭和47年)には「缶入りカンパン」を発売。この商品は、乾パンを湿気や虫から守る密閉された缶に入れて販売されたもの。缶には小さな「氷砂糖」も入っていて、甘さとエネルギーの補給を同時にできる工夫がされています。
この缶入りカンパンは、防災用の非常食としてとても人気が出て、家庭や職場、学校に備えられるようになりました。
「備蓄食」としての乾パン
近年、日本では地震や台風など、自然災害が多発しています。それにともなって、家庭でも非常時に備えて食べ物や水を用意しておく「防災意識」が高まってきました。
乾パンは、下記のような理由から、防災食として再評価されています。
- 調理不要ですぐ食べられる
- 賞味期限が長い(5年以上のものも)
- 食べごたえがあり、少量でもエネルギーを確保できる
また最近では、ゴマ入り、チョコチップ入りなど味のバリエーションも増えて、用途もアウトドアやスポーツ活動のお供にするなど、活躍の場が増えるようになりました。
まとめ
乾パンは、江戸時代の兵糧研究に始まり、明治時代には軍の保存食として進化し、昭和には国民の命を守る糧となり、現代では防災食・携行食として新たな価値を持つ食品となりました。
木村儀四郎や三立製菓といった人々や企業の努力により、乾パンは長く使える、安心して備えられる日本独自の食文化として根付きました。
私たちがいま手にする一つの乾パン缶には、時代を超えた知恵と工夫、そして人々の暮らしを支えてきた歴史が詰まっているのです。