コロンバンと創業者:門倉国輝の歴史!日本で普及した近代フランス菓子

目次

門倉国輝とコロンバンの歴史

生い立ち

彼は明治26年(1893年)、埼玉県熊谷市で士族の家系に生まれましたが、家庭は不安定でした。

父親は大酒飲みで、母親は夫の行動に耐えかねて家を出てしまいます。

幼い国輝と生まれたばかりの妹は父親とともに深刻な状況に陥り、父親は絶望の中で親子心中を図ろうと決意します。

その悲劇的な瞬間、上野不忍池のほとりで、赤ん坊の国輝が無心に笑顔を見せたことで状況が一変しました。

父親はその微笑みによって冷静さを取り戻し、命を絶つ決意を翻したのです。この「一瞬の微笑み」が、国輝とその家族の命を救うきっかけとなりました。

食の世界に入るきっかけ

父親は横浜に移り住み、知人の助けを借りて料理店を開業しました。これが国輝少年が食の世界に足を踏み入れるきっかけとなります。

12歳の時、彼は横浜の洋菓子店「風月堂」に小僧として奉公に出されました。当時、この店は米津風月堂の一門に属し、洋菓子文化の最前線に位置しています。

国輝は仕事を通じて多くの技術を学び、夜間中学に通いながら英語を独学するなど、自己啓発にも励みます。その後、フランス料理と菓子で名を馳せていた芝の東洋軒に移り、本格的にフランス菓子の技術を学び始めるのです。

フランスへ渡航

1921年、大正時代の終わりに28歳の門倉国輝はフランス菓子の技術を学ぶために渡仏しました。パリで最初に門倉が修行したのは、名門菓子店「コロンバン」。この店はフランス菓子界で高い評価を受けており、多くの職人が憧れる場所でした。

門倉はここでフランス菓子の基本技術を徹底的に学びます。ショートパスタや焼き菓子といった伝統的な菓子の製法はもちろん、フランス菓子の本質である「美しさ」と「精密さ」を追求する姿勢を体得しました。

製菓技術を習得

コロンバンでの修行を終えた後も門倉はさらなる挑戦を続けました。高級ホテル「マジェスティック・ホテル」や有名な「ジェックス菓子店」では、単に日常的に売られる菓子だけでなく、特別なイベントや高級顧客向けの菓子作りにも携わりました。

特に彼が注力したのはチョコレートや糖菓の技術です。当時、これらの製品は高度な技術を必要とし、商業的にはすぐに利益を生むものではありませんでした。それでも彼は長い目で見た技術の重要性を理解し、惜しみなく努力を注ぎました。

言語の壁を越えて

フランスでの生活は決して楽ではなく、物価の高さや孤独感に悩む日々も多かったといいます。門倉の修行時代は、今のように日本人が海外でサポートを受けられる環境ではありませんでした。

当時のパリに住む日本人は非常に少なく、言語や文化の壁を乗り越えるのに相当な努力が必要だったのでしょう。フランス語の辞書を持っていなかった彼は辞書を自作し、分からない単語や表現を一つずつ覚え、職場でのコミュニケーションは耳で聞いて学ぶ「耳学問」や、観察と推測を駆使することで乗り越えました。

帰国後、コロンバン創業

1924年(大正13年)、フランスでの修行を終えた門倉国輝は日本に帰国。そして大森に「薬物化学研究所・コロンバン商店」を創業しました。

創業当初は薬物化学研究所という名を冠し、単なる菓子店ではなく研究機関のような印象を与える名称でした。門倉の真の目的はフランス菓子を日本で根付かせることにあり、やがて彼は銀座に進出して本格的な店舗を構えます。

人気店の「銀座店」

菓子

銀座店では、フランスで学んだ洋菓子の製法を忠実に再現しました。当時の日本では、洋菓子といえばビスケットやカステラが主流で、フランス菓子は一般的ではありません。門倉が提供したエクレアやマカロン、ガトーショコラなどは、日本人にとって新鮮で贅沢さを感じさせるものでした。

店舗デザイン

門倉は菓子そのものだけでなく、店舗デザインにも力を注ぎました。特に注目を集めたのが、著名な画家・藤田嗣治による天井壁画を取り入れたデザインです。藤田嗣治は、フランスを拠点に活躍していた日本人画家で、独自の装飾性とモダンな感覚を持ち合わせていました。この壁画が、店全体に高級感と異国情緒を与え、来店者を魅了しました。

テラス席の設置

店舗にはテラス席を設けました。当時の日本では、外の景色を楽しみながら食事やお茶をする文化は一般的ではなく、このスタイルは非常に革新的でした。フランスのカフェ文化を日本に取り入れたこの試みは、多くの人々に新しい体験を提供し、銀座の文化的なシンボルとしてコロンバンを際立たせる要因となりました。

まとめ

こうして門倉が銀座で創業したコロンバンの試みを追ってみると、コロンバンは単なる菓子店を超えた存在とも思えます。藤田嗣治の壁画、テラス席、そして高品質のフランス菓子は、当時の日本人にとって「フランス」を体感できる特別な空間でした。

菓子屋の商品・造形にこだわったアプローチによって、フランス菓子は特別な存在から日本人の日常に溶け込む文化へと変わっていったのです。この成功が、後の日本洋菓子業界の発展にもつながっています。

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