果物が「巣子(くす)」と呼ばれ、やがて「菓子」へと名を変え、大陸から伝わった文化とともに「唐果物」や「唐菓子」へと発展。日本のお菓子文化の歩みは、まさに時代の流れとともに豊かに形を変えます。一度先進文化の恩恵を受けた大和民族の探究心と進化の歩みは、驚くほど力強く、そして洗練されていました。
私たちの先祖である古代の人々は、大陸からもたらされた文化を単に受け入れるだけでなく、それを独自の工夫と感性でさらに発展させて、「和」の精神に昇華させた世界に類を見ない日本独自のお菓子文化を築き上げていったのです。
鎌倉時代~室町時代の菓子文化
特に鎌倉時代から室町時代にかけての時期は日本のお菓子が独自の進化を遂げ、「和菓子」という一つのジャンルが確立される重要な転換期でした。この時代に日本独自の感性や味覚が唐菓子の技術や概念に融合し、繊細で美しい和菓子の形が整えられていきます。
藤原氏の全盛期とともに国文学が花開き、日本の文化水準は飛躍的に向上します。その後、源平の戦いを経て建久3年(1192年)、源頼朝による鎌倉幕府が成立し、武家政治の質実剛健な時代が幕を開けます。新たな仏教が興隆し、民衆の間に広まる中で日本の文化や食文化にも大きな影響が及びました。
茶文化の伝来
特に注目すべきは禅宗の臨済宗を開いた栄西が中国から茶の木を持ち帰り、日本に茶文化を伝えたことです。
当初、茶は薬用として扱われましたが、室町時代に至るとその地位は大きく変わります。
華やかな文化を象徴する茶の湯が流行し、階級を問わず多くの人々が茶を楽しむようになったのです。
菓子が茶文化と共に発展する
茶会で振る舞われる点心は茶文化とともに洗練され、お菓子として独自の発展を遂げていきました。
点心という言葉はもともと禅の教えに由来し、「食事と食事の間や朝食前の空腹時に少量の食べ物を取る」という意味を持っています。
当初の点心は饅頭や果実、餅、麺類などの簡素なものでした。
しかし、足利義政が推奨した東山文化の時代には茶道が本格的に発展し、点心も茶の湯の精神に合わせてより洗練され、「茶子」と呼ばれるお菓子が生まれます。
この頃、京菓子として知られる風雅な和菓子が確立され、茶の引き立て役として文化的な役割を担うようになりました。
茶会の点心として誕生した菓子は、大きく分けて練菓子、餅菓子、蒸菓子、干菓子といった種類に分けられます。
これらが和菓子の原点となり、時代とともにさらに手が加えられ、味、形、そして美意識が磨かれ、現在の姿へと完成されました。
和菓子というジャンルは、単なる大陸文化の輸入にとどまらず、日本独自の感性によって見事に昇華され、ひと味違った形で花開いていったのです。
菓子文化が庶民にも広がる
一方、庶民の間でも菓子文化は着実に広がり、康永2年(興国4年・1341年)には、京都に菓子商の組合が設立されました。
これはお菓子の需要が急増し、商業としての安定が確立された証拠と言えるでしょう。
この時代を境に生の果実、いわゆる「水菓子」は菓子の概念から外れていきました。
興味深いのは同時期のヨーロッパでもギルドと呼ばれる同業組合が発展し、商工業の基盤が整えられていたことです。
農業の発展による産物の増加が背景にあり、日本とヨーロッパで直接の交流がないにもかかわらず、社会制度や文化の発展には類似性が見られます。
こうして見比べると、人類全体が似たようなリズムで進化を遂げてきたことを感じさせます。