日本における菓子文化の起源!

私たちの祖先はどのようなものを口にしていたのでしょうか?

そして今日のようなお菓子はどのような背景や位置づけから発展してきたのでしょうか。

この問いに迫ると古代の生活や文化が垣間見えてきます。

目次

物語を通じて形作られる食文化

古墳時代に遡ると大陸から伝わった須恵器(すえき)と呼ばれる焼き物の中に、お菓子のような形をした模型品が見つかっています。しかし、それが実際にどのようなお菓子だったのか、材料や作り方などその詳細についてはほとんど分かっていません。

昔のお菓子を知る手がかりは非常に限られており想像を巡らせるほかありませんが、ここで「保食神」などの神話の世界にも目を向けると食文化の起源を考えるヒントが得られます。

神話「保食神」

日本の神話には保食神(うけもちのかみ)が登場します。

彼の体内からは米や魚、家畜など、人々の生活に欠かせない食材が次々と生み出されたとされています。

しかし、これを穢れと見なした月夜見尊(つくよみのみこと)が、保食神を斬るという悲劇的な結末を迎えました。

それでも保食神が生み出した恵みはこの世に残り、人々の生活を支える基盤となったのです。

私たちの食文化は何か特別な出来事や象徴的な物語を通じて形作られてきました。大陸からの影響を受けながら日本という土地で独自に進化し、人々の生活に根づいていったのです。

お菓子の歴史もその一部であり、古代の祝いや儀式に使われていた食材や形状が、現在の伝統菓子や洋菓子に至る道筋の源流となっているのかもしれません。

このように考えるとお菓子とは単なる甘い食べ物ではなく、私たちの文化や歴史、信仰の一部を映し出すものとして非常に奥深い存在だといえるのではないでしょうか。

昔の菓子は「ナッツ」や「フルーツ」

改めて私たちの祖先である有史前期の大和民族の食生活を振り返ると狩猟を主とするヨーロッパの民族とは異なり農耕や漁業を中心とした穏やかな生活スタイルを送っていたようです。

肉食が完全にないわけではなかったものの、米や栗、稗(ひえ)といった穀物を主食とし、川や海で獲れる魚や貝類を補助的な食材として活用していたようです。

そして主食の間に空腹を満たすため、山や野にある木の実や果物を口にしていたと伝えられています。

これらの木の実や果物は当時「果子(かし)」と呼ばれ、やがて「菓子(かし)」という形で現在の「お菓子」の起源となりました。

つまり遡ると私たちが今楽しんでいるお菓子のご先祖様はナッツやフルーツだったのです。

当時の菓子の分類

当時の果子には、梨、栗、ザクロ、リンゴ、桃、柿、橘(たちばな)といった木になる果物や、瓜、ナス、アケビ、イチゴ、ハスの実といった草になる果物が含まれていました。

現代的な視点では、これらをフルーツやナッツに分けて分類するのが一般的ですが、当時は「木になるもの」と「草になるもの」という独自の分類がされていました。

このような分け方はシンプルでありながらも直感的で、古代の人々の物の捉え方が垣間見える興味深い事例といえるでしょう。

お菓子を間食する文化のきっかけ

「木になるもの」と「草になるもの」という分類については、ヨーロッパをはじめとする他の地域の食文化とも共通しており、人類の基本的な間食文化としての起源が伺えます。

ただし、日本では果子が主に間食用として親しまれていたのに対し、フランスなどでは食後のデザートとしての位置づけが強い点に違いがあります。

この日本独特の「間食文化」は現代にも色濃く引き継がれています。

例えば、「おやつ」という言葉には食事と食事の合間に軽く食べるという意味があり、10時や3時のおやつの習慣やお茶請けとしてのお菓子文化が根付いています。

近年、洋風のデザート文化が広がりつつありますが、それでも子どものおやつタイムや職人の小休憩でのお菓子の位置づけを見れば、日本の間食としての「お菓子」観が根強く生き続けていることがわかります。

この点ではイギリスのティータイムでビスケットを楽しむ文化とも共通点があり、日英の意外な類似性に興味をそそられるところです。

この間食文化は、後の茶の湯文化や点心(軽い間食)とも深く結びついているようです。

点心そのものが本来「間食」を指していたことから考えると、日本のお菓子文化の起源がさらに立体的に見えてきます。

お菓子を調理する文化のきっかけ

古代の大和民族は、自然の恵みをそのまま静かに食するという素朴な生活を送っていましたが、大陸との交流が進むにつれて、その食文化に大きな変化が訪れます。

特に仏教をはじめとする先進的な文化の流入が、その変化を加速させました。

仏教が公式に伝えられたのは欽明天皇の時代、西暦538年とされていますが、実際にはそれ以前から多くの渡来人が大陸の知識や技術を日本にもたらしていました。

異文化との接触は大和民族にとって大きなカルチャーショックだったに違いありません。衣食住や宗教観に至るまで、大陸からの影響を受けて大きく変容していったのです。

特に「食」の分野では、それまで自然のままの形で摂取していた食べ物が、さまざまな調理や加工技術によってより多彩な形で楽しめるようになりました。

お菓子を奉納する文化のきっかけ

当時の農耕民族としての彼らは、自然崇拝に基づき収穫物を神に供える風習を持っていましたが、仏教の普及に伴い、神仏への供物として「お菓子」の奉納が特に盛んになりました。

聖徳太子の時代には仏教が政治や生活の中で重要な位置を占めるようになり、それに伴い「美味しいもの」としてのお菓子が特別視され、神仏への捧げ物として用いられるようになったのです。

このような「お菓子」に対する敬意の念は、西洋におけるエジプト時代の神への供物や、ギリシャ・ローマ時代の奉納文化とも共通しています。

東西を問わず人々が神や仏に対してお菓子を捧げてきた背景には、贅沢品であるお菓子が特別な思いを込める象徴として適していたからでしょう。

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