新高製菓の創業者
新高製菓を創業した森平太郎氏は、佐賀県出身の菓子商です。
彼は明治35年(1902年)に妻とともに台湾に渡り、台北市で「一六軒(いちろくけん)」という店を開きました。
この店では故郷で学んだ饅頭の製造・販売を行い、事業をスタートさせます。
当時の台湾は日本の統治下にあり、現地の資源を活用しながら事業を展開することが可能でした。
森平太郎氏の出身地である佐賀県は、森永製菓の創業者・森永太一郎氏や、グリコを立ち上げた江崎利一氏を輩出した土地でもあります。このように日本の菓子業界に多大な影響を与えた人物が佐賀から続々と現れているのは偶然でしょうか。
新高製菓の名前の由来
「新高製菓」の社名は台湾の最高峰である「新高山」にちなんでおり、日本と台湾のつながりも感じられます。
この山は当時日本領であった台湾において日本国内最高峰とされており、太平洋戦争の際にも「ニイタカヤマノボレ」という暗号に使われるなど、象徴的な存在でした。
新高製菓のヒット商品
バナナキャラメル
台湾で現地産の砂糖や練乳が豊富に手に入ることを知った森氏は、これらを活用してキャラメル作りを始めます。これが新高製菓の誕生につながりました。
明治38年(1905年)、森氏は「新高製菓」を正式に設立して事業を拡大。台湾産のバナナを使った「バナナキャラメル」は濃厚なバナナの風味と滑らかな食感が人気を呼び、大正時代に新高製菓を象徴する大ヒットを記録しました。
この成功を背景に大正14年(1925年)には東京へ進出して工場を設立。新高製菓は全国的な菓子メーカーとしての地位を確立。バナナキャラメルの他にも缶入りドロップや風船ガムといった新商品を次々と生み出し、日本のお菓子文化を豊かにしました。
風船ガム
新高製菓は、1928年(昭和3年)頃に日本で最初期の国産チューインガムの製造を開始し、1931年(昭和6年)には風船ガムを発売してブームを巻き起こしました。
当時の日本市場において新しい菓子のジャンルを切り開き、特に風船ガムは子どもたちに「膨らませて遊べる」という楽しみを提供して大ヒットとなります。
創業者の森平太郎氏が昭和21年(1946年)に亡くなった後、新高製菓は勢いを失いましが、それでも戦後しばらくの間は、景品付きのお菓子を販売するなどして子どもたちに夢を与え続けました。