吉田菊次郎氏が災害時に感じたお菓子の存在意義(レゾン・デートル)

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災害時におけるお菓子の存在意義

2011年3月11日、日本列島は未曽有の大災害に見舞われました。マグニチュード9.0という巨大な地震と、それに続く大津波は、東北地方を中心に甚大な被害をもたらし、多くの尊い命を奪いました。「1000年に一度」とも言われるこの大災害の前で、人々は言葉を失い、日常の営みは一瞬にして止まってしまいました。お菓子やスイーツを扱う業界も例外ではなく、普段なら新しい流行や話題の商品開発に心を砕く業界関係者たちも、そうしたことを考える余裕は全くありませんでした。

お菓子が持つ「レゾン・デートル」とは

災害が発生した時、何よりもまず必要になるのは、命をつなぐための基本的な食べ物と飲み物です。おにぎりやパン、水といった最低限必要な食料の確保が最優先されます。しかし、人間とは不思議なもので、生命の危機を脱し、ひと息つけるようになると、今度は甘いものが欲しくなってくるものです。これは単なるわがままや贅沢ではありません。甘いものを口にすることで、心が自然と落ち着き、ほっとした気持ちになれるからです。

存在理由を意味するフランス語

この時、お菓子が人々の心に与える力こそが、お菓子の**「レゾン・デートル」**、つまり存在意義だと考えられています。レゾン・デートルとは、フランス語で「存在理由」や「存在意義」を意味する言葉です。普段の平穏な日常では、お菓子は単なる嗜好品や楽しみのためのものと思われがちです。しかし、このような非常時だからこそ、お菓子が人々の心に与える本当の力、その真の存在意義が浮き彫りになったのです。

大震災での支援活動

農林水産省と被災地の災害対策本部からお菓子業界に支援要請が届きました。スイーツを手がける吉田菊次郎氏も、支援要請を受けて活動を開始しました。実は、このような緊急事態への対応は、同氏にとって初めてのことではありませんでした。1995年に発生した阪神・淡路大震災の際にも同様の支援活動を行っており、その時の貴重な経験が今回大いに活かされたのです。

災害時における理想的な菓子類

吉田氏は、日持ちのする焼き菓子生菓子をすでに相当量準備していました。焼き菓子とは、クッキーカステラなどのように焼いて作られ、比較的長期間保存がきくお菓子のことです。また、半生菓子とは、マドレーヌバウムクーヘンなど、焼き菓子と生菓子の中間的な水分量を持つお菓子で、これも一定期間の保存が可能です。これらの菓子類は、災害時の支援物資として理想的な条件を備えていました。

会社を挙げて支援体制を整え、出動の指示を待っていました。そしてついに出動の時が来ると、トラックにお菓子を満載して、被災地へと向かいました。

避難所で見た現実とお菓子の力

最初に訪れたのは、宮城県女川町にある女川第二小学校でした。この学校には、なんと2500人もの人々が避難していました。通常の小学校の収容人数をはるかに超える人々が、限られた空間に身を寄せ合っていたのです。避難所では、一杯の雑炊を求めて長蛇の列ができていました。つい数日前まで何事もなく普通の生活を送っていた人たちが、今は食べ物を求めて並んでいるという、信じがたい光景でした。

子供たちの痛ましい姿

特に心を痛めたのは、津波で家族を失い、突然孤児となってしまった子供たちの姿でした。「孤児」という言葉は、第二次世界大戦で親を失った戦災孤児以来、久しく耳にすることのなかった言葉でした。それが再び現実として目の前にあることの重さを、吉田氏は痛感していました。

女川第二小学校は高台にあったため津波から逃れられましたが、すぐ下の住宅地の家族は全員が津波に流されてしまったといいます。津波の恐ろしさは、わずか数メートルの高低差で生死が分かれることです。助かった人たちは、いずれ避難所から散り散りになり、一人ひとりが厳しい現実と向き合わなければならない時が必ず来ます。その時の子供たちのことを思うと、吉田氏の心は塞がる思いでした。

感謝の気持ちと溢れる涙

そんな避難所にお菓子を届けた時、避難している人々がお菓子一つに、まるで神様にお祈りするように手を合わせて拝んでくれたのです。その光景を目の当たりにした時、吉田氏はたまらない思いに駆られ、思わず涙が頬を伝いました。お菓子がこれほどまでに人々に感謝されるものだということを、改めて実感した瞬間でした。

宮城県石巻市でも同様の光景が待っていました。荷物を運び込むと、避難している人たちが「えっ、これお菓子ですか?開けてもいいですか?」と驚きの声を上げました。そして箱を開けた瞬間、「あっ、ホント、お菓子だあ!」という歓声が響きました。その一言で、それまで重苦しい空気に包まれていた体育館全体が一瞬にして明るくなったのです。お菓子の持つ力の大きさに、吉田氏は改めて驚かされました。

東松島市でも同じことが起こりました。一片のお菓子が人々の表情を変え、心に希望の光を灯す様子を目の当たりにして、お菓子の本当の価値を再認識していました。それは単なる嗜好品ではなく、人の心を癒し、生きる力を与えてくれるものだったのです。

会津美里町の廃校になった建物でも、避難している人たちが「わあ、お菓子!」と目を潤ませながら、満面の笑みを浮かべて喜んでくれました。「相好を崩す」という表現がまさにぴったりでした。その時吉田氏は、もっとたくさんのお菓子を積んでこられなかったことを心から悔やみました。

福島で目の当たりにした異様な光景

日を改めて、今度は磐越自動車道を使っていわき市に向かいました。高速道路を走っていて、途中の道に一台も車が見当たらなくなっていることに気づきました。普段なら車が行き交う高速道路が、まるでゴーストタウンのように静まり返っていたのです。いわきインターチェンジで降りると、言いようのない異様な風景が目に飛び込んできました。

街には人っ子一人見当たりません。まるで人類が消えてしまった世界のようでした。しかし、道の両側にある民家をよく見ると、人のいる気配は感じられます。電気は点いていないけれど、生活の痕跡はありました。しかし、誰も外に出てこないのです。

目に見えない敵との闘い

この異様な光景の理由は、後になって分かりました。農林水産省や災害対策本部の担当者が「宅配便もままならない状況」と言っていた意味を、ここで初めて理解したのです。福島第一原子力発電所の事故により、放射性物質の拡散を恐れた人々が外出を控え、物流も大幅に制限されていたのでした。これは津波のような一過性の災害とは根本的に異なり、目に見えない敵との長期間にわたる闘いの始まりでした。

指示された学校に到着すると、そこにも大勢の人々が避難を余儀なくされていました。続いて向かったいわき平競輪場では、全国から寄せられた救援物資が山のように積まれていました。その中には、親しい同業者の名前が入った段ボール箱をいくつも目にすることができました。全国のお菓子業界の仲間たちが、それぞれできることをして支援に参加していることを知り、吉田氏は心強く感じました。

しかし、福島で目の当たりにした状況は、津波による被害とはまた別の深刻さを持っていました。津波は確かに甚大な被害をもたらしましたが、水が引けば復旧への道筋が見えてきます。しかし、原子力発電所の事故による放射能汚染は、果てしなく続くであろう目に見えない敵との闘いでした。この闘いは、現代社会にあまりにも大きな傷跡を残していきました。

お菓子が持つ本当の価値

2011年という年は、通常であれば流行するお菓子やスイーツがあるものですが、この年は流行したと言えるお菓子は皆無でした。誰もがそれどころではなかったからです。

しかし同時に、お菓子の持つ**レゾン・デートル(存在意義)**がこれほどまでに再認識された年もありませんでした。平時には気づかない、お菓子の本当の価値と力が、この未曽有の災害を通して明確に浮き彫りになったのです。それは人の心を癒し、希望を与え、生きる力を呼び覚ます力でした。甘いものが持つこの特別な力こそが、まさにお菓子のレゾン・デートルなのです。

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