西欧は十字軍の遠征中、インドにて砂糖と出会う

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砂糖とアレクサンダー大王

歴史の大舞台には、時代を超越するような規模の偉人が現れるものです。その中でもアレクサンダー大王はまさにその象徴といえる存在でした。

彼は父であるフィリップ二世の跡を継ぎ、東奔西走しながら驚異的な活躍を見せ、西はマケドニア、ギリシャ、エジプトから、東はインダス川流域に至るまで、史上空前の広大な領域を制圧しました。

この彼のわずか13年の在位期間中における壮大な行動が、後にお菓子の世界に革命的な変化をもたらす砂糖との出会いをも導いたのです。

西欧と砂糖の出会い

西欧が砂糖と初めて出会ったのは、紀元前4世紀頃と言われています。

その具体的な記録として知られるのが、紀元前337年、若干20歳でマケドニア王位を継いだアレクサンダー大王のインド遠征に関するエピソードです。

当時、彼の司令官が「インドでは蜂の助けを借りずに、茎の中から甘い汁を採取している」と報告したことが伝えられています。

この「茎」とは、まさに砂糖の革命をもたらすことになる砂糖きびのことでした。

インドは西欧より早く砂糖を知っていた

実際には現地の人々はその数百年前から既に砂糖きびを利用し、その甘味を楽しんでいたと言われています。

西欧の歴史観では「発見」とされていますが、実際にはその甘味文化は遥か昔から確立されており、砂糖きびが持つ魅力を存分に活用していました。

この点を踏まえると「発見」という表現は西欧中心の視点に過ぎないとの批判もあるかもしれません。

インドから砂糖が伝わっていった証拠

砂糖が西欧に伝わる過程は言語からもその足跡がうかがえます。

例えば、英語の Sugar(シュガー)、フランス語の Sucre(シュクル)、ドイツ語の Zucker(ツッカー) など。

いずれも語源をたどると東インドで砂糖を意味する Sheker や、サンスクリット語で「甘い粒」を表す Sarkara に行き着きます。

これらの言葉は砂糖がインドから世界各地へ伝わり、西欧にも甘味文化を広げたことを示す証拠といえるでしょう。

砂糖と十字軍遠征

11世紀から13世紀にかけて、約200年にわたる十字軍遠征は、セルジュク・トルコによるキリスト教の聖地イェルサレム占領を契機として始まりました。

ローマ法皇の指導のもと、聖地奪回を目的に結成された十字軍は1096年から1270年の間に計8回の遠征を行いました。

しかし、1291年にはキリスト教勢力最後の拠点であったアッコンがイスラム側の手に落ち、宗教的な目標は完全に失敗に終わりました。

それでも、この十字軍は社会的・文化的には極めて大きな影響を与えた歴史的な出来事として記憶されています。

その理由は、十字軍の度重なる東方への進出が、文化の伝播と融合を促進したからです。

十字軍遠征の影響

遠征に参加した数百万人ものキリスト教徒の中には若い兵士も多く、遠征地での出会いや結婚を通じて異なる文化が交わり、互いの生活様式が広がりました。

こうして「文化」と一括りにされる人々の習慣や技術、価値観が各地へ移動し、定着していったのです。

この過程で、お菓子を含む食文化も新しい土地へと伝播しました。

さらに、十字軍遠征に伴い整備された軍用路がその後の商業交易路として活用されたことも重要な成果でした。

この交易路を通じて、砂糖や香辛料、薬草といった東方の産物が西ヨーロッパ、特にイタリアにもたらされ、これがヨーロッパの食文化や医療、さらには経済に大きな影響を与えることになります。

砂糖がヨーロッパに伝播

砂糖きびが西方に伝わると、ヨーロッパ各地で砂糖を用いた菓子作りが進化を遂げ始めます。

その足跡をたどれば、6世紀にはペルシャやアラビアへ広がり、8世紀には地中海沿岸諸国へも伝播しました。

そして10世紀になると原産地と似た気候条件であるからか、エジプトでの砂糖きびの生産が盛んになり、同国にとって重要な財源の一つとしての役割を果たすようになります。

砂糖と十字軍の出会い

さらにこの時期、十字軍の兵士たちがリビアのトリポリで砂糖きびと出会うことになります。

彼らはこれを「甘い塩」や「インドの塩」と呼び、香料の一種と考えました。

当時の十字軍兵士にとって砂糖の多様な用途を理解することはできませんでしたが、この出会いが砂糖の世界的な広がりを促進する契機となったのは確かでしょう。

十字軍の遠征はイスラム教世界とキリスト教世界の対立から生まれた中世最大の事件です。しかしこれが単なる宗教戦争にとどまらず、文化や素材の伝播を大きく加速させる役割を果たしました。

まさに十字軍こそが砂糖の普及を飛躍的に促した存在と言えるでしょう。

砂糖とナポレオン戦争

砂糖の西欧への伝来は、それまでアラビア人による地中海貿易という限定的な経路を通じて行われていました。

そのため砂糖は非常に貴重品であり、西欧の食文化に新たな喜びをもたらしたものの、実際にこれを楽しむことができたのは、貴族や富裕層といった一部の特権階級に限られていました。

庶民が砂糖を気軽に味わえるようになるのは、さらに長い年月を経た後のことです。

砂糖が本格的に普及して一般の人々の生活に浸透するようになるのは近代に入ってから、特にナポレオン戦争後の出来事がその契機となりました。

砂糖を普及させた施策

時代が飛びますが当時、ナポレオン・ボナパルトの戦略によってフランスは敵対国との貿易が封鎖され、海外からの砂糖供給が途絶えていました。

この事態に対処するため、ナポレオンは寒冷地でも栽培可能な甜菜から砂糖を生産することを奨励する政策を打ち出します。

甜菜は16世紀末に発見されていましたが、ナポレオンの奨励策によって本格的に栽培が広まり、砂糖生産の基盤が築かれました。

皮肉にも、この取り組みが本格的な成果を上げたのはナポレオン失脚後のことですが、それによって砂糖は庶民の手にも届くようになり、かつては「高嶺の花」とされた甘味が一般化していきました。

砂糖、及び食文化の発展は奇想天外

十字軍という宗教的な運動が結果として商業活動を活発化させ、東西文化の架け橋となったことは、歴史の皮肉ともいえるかもしれません。

宗教的には徒労に終わった十字軍遠征ですが、文化と商業の発展においては新しい時代への扉を開く役割を果たしました。

この影響はお菓子作りや調味料の使用、さらには医療分野にまで及び、現在のヨーロッパ文化の基盤の一部を築いたと言えるでしょう。

文化の発展とは、必ずしも美しい理想だけで成り立つものではないのでしょう。

他にもアレクサンダー大王の遠征による発見、ナポレオン戦争をきっかけとした生産技術の進化などが、砂糖が普及するターニングポイントとなっています。

今回の砂糖の話だけでも、文化というものは政治、経済、戦争、宗教といったさまざまな要素が絡み合い、密接に影響し合っているのです。

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