洋菓子の普及に貢献した風月堂
いつの時代でも、その業界をリードする存在があります。
明治から大正にかけての洋菓子の勃興期においては「風月堂一家」がその役割を担いました。
風月堂の歴史
風月堂の初代である小倉喜右衛門は宝暦3年(1753年)に大阪で商いを始めました。
その後、徳川10代将軍家治の頃に江戸の京橋・南伝馬町へと移り、「大阪屋」と称して菓子商を営みます。
文化9年(1812年)には松平定信公より「風月堂清白」の屋号を賜りました。
明治時代になると5代目小倉喜右衛門のもとで西洋菓子の製造が始まりました。
この時期、風月堂は和洋菓子の大店としてさらに発展します。
その5代目の特徴は伝統を重んじつつも新しいものを積極的に取り入れる姿勢でした。
風月堂と米津松造の連携
5代目喜右衛門は番頭の米津松造に暖簾分けを許し、独立を支援しました。
米津松造は明治6年(1873年)、東京日本橋区両国に「両口屋風月堂」を開業。
風月堂本店に倣って西洋菓子の製造販売を始めました。
米津は世界各地から集まる情報を精査し、近代菓子の発展に寄与する革新的な人物でした。
彼は主家である風月堂本店とも協力し、時には競い合いながら製菓技術の向上に努めました。
リキュールボンボンの誕生
明治7年(1874年)、風月堂本店の喜右衛門と米津松造は共同でリキュールボンボン「宝露糖」を完成させました。
「宝露糖」という名前には、リキュールを包む糖衣が宝石のように美しいという意味が込められています。
この菓子は濃度の高い糖液をデンプンやコーンスターチで作った型に流し込み、自然に糖膜を形成する技術を使用して作られました。
宝露糖の成功は「菓子作りは化学である」という概念を広め、以後の洋菓子製造に大きな影響を与え、日本の菓子業界の技術向上に貢献します。
リキュールボンボンの普及と現代
宝露糖の登場は日本の洋菓子文化における大きな転換点となりました。その革新性と独自性は洋菓子が日本に定着する土壌を築きす。
実際にリキュールボンボンの製造技術は他のスイーツにも応用され、菓子業界全体の発展を後押ししました。
現代のリキュールボンボン
現在では、さまざまな種類のリキュールを使用したボンボンが販売されています。
シャンパンやブランデー、フルーツリキュールなど、多彩なフレーバーが楽しめるようになりました。
また、パッケージデザインや保存技術の向上により、ギフトとしても人気を博しています。
リキュールボンボンは、単なる洋菓子を超えて、日本の菓子文化に深く根付いたスイーツとして今後も多くの人々に愛され続けることでしょう。