昭和20年代の日本の菓子業界
昭和20年代、日本は戦争の敗北を受けて、これまで築いてきたものをすべて失いました。
国民は困窮し、経済情勢は混乱を極め、食糧事情も非常に厳しいものでした。
進駐軍による統治下、物資の不足が深刻で、買い出し列車で遠方へ物資を求める日々が続き、ヤミ米やヤミ物資が国民の生活を支えていました。
この時代、嗜好品であるお菓子に手を回せる余裕はなく、特に砂糖は極めて貴重な存在でした。
代用品として、サッカリンやズルチンといった人工甘味料が使われることが一般的でした。
菓子業界の復興の兆し
その後、復興の兆しが見え始めるのは、終戦から3~4年が経過した頃のことです。
昭和24年(1949年)に水飴の統制が解かれ、昭和25年(1950年)には練粉乳の統制解除や菓子類の価格統制(いわゆる「マル公」の撤廃)が行われました。
そして昭和27年(1952年)には、待望の砂糖と小麦粉が自由化されました。
この動きを契機として、長らく停滞していた洋菓子店や製菓会社が息を吹き返し、復興が急速に進みました。
復興期の菓子業界
主要産業が復興を遂げ、国民生活も日増しに向上しました。食生活も徐々に豊かさを取り戻し、甘味文化も復活していきました。この復興の背景には、アメリカからの支援があったことはもちろん、何よりも日本人の自立心と不屈のバイタリティーがありました。
限られた材料から生まれた菓子
戦後の復興期には、限られた材料を工夫して菓子が作られました。例えば、脱脂粉乳の余剰品から生まれた「ミルキー」が登場し、大ヒットを記録しました。また、チューインガムが生産され始めたのもこの時期です。こうした新しい菓子は、甘味を求めていた国民に大きな喜びを与えました。
子どもたちを夢中にさせた菓子
この時期、紅梅キャラメルやカバヤキャラメルが景品付きで販売され、戦前から親しまれていた新高ドロップやフルヤのウインターキャラメル、ライオンバターボールなどとともに、多くの子どもたちに夢と楽しみを提供しました。これらの菓子は、甘い味覚とともに戦後の苦しい時代に希望を与える存在でもありました。
昭和20年代を振り返って
戦後の昭和20年代、日本人はまさにゼロからの再出発を強いられました。その中で、限られた資源を活用しながら甘味文化を復活させた背景には、物資の不足を補う工夫や努力がありました。ミルキーやキャラメルなどの菓子は、復興期の象徴として子どもたちの記憶に残り、日本の製菓業界に新たな時代を切り開きました。この時代の歩みは、日本人の不屈の精神と共に甘味文化の底力を物語っています。