【昭和時代】パティシエたちの海外渡航|日本の菓子文化

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パティシエたちの海外渡航

戦後、世の中が安定し、経済が豊かになるにつれ、海外渡航が現実的な選択肢となりました。以前は高嶺の花だった外国への渡航が、技術者や職人たちにとっても手の届くものとなり、多くの若い技術者たちが海外に向かいました。それは、日本が長年の遅れを取り戻し、世界に追いつき、さらには独自の価値を発信するための第一歩だったと言えます。フランスやスイス、ドイツ、オーストリアなど、目的地こそ異なれども、それぞれが自らの技術を磨くために努力を惜しみませんでした。

語学の壁

海外での修行には、語学の壁という大きな試練が立ちはだかります。フランス菓子を学ぶためにフランスに向かうと決めたなら、フランス語を学ぶ努力が欠かせません。修行に加えて、語学習得にもエネルギーを注ぎ込む必要があり、人によってはこれが大きな負担となりました。

さらに、例えばフランス菓子に続いてドイツ菓子を学ぼうとする場合、新たにドイツ語を学ぶ覚悟が必要です。しかし、多くの人はフランス語の習得で精根尽き果ててしまい、別の言語に向き合う余力を残していませんでした。

スイスという場所

スイスは、フランス、ドイツ、イタリアと国境を接し、それぞれの文化が影響し合う独自の地域です。公用語もフランス語、ドイツ語、イタリア語に加えロマンシュ語が存在し、多言語文化が根付いています。この環境は、菓子職人にとって貴重な修行の場となりました。

スイスで修行をすることで、フランス菓子を学んだ人はドイツ菓子に触れる機会を得ることができ、逆にドイツ菓子を学んだ人はフランス菓子を知るきっかけを得ました。また、イタリア菓子を学んだ人も同様にスイスを通じて新たな文化圏に触れることが可能でした。

スイス菓子の独自性と自由な精神

スイスは、かつてハプスブルク家の支配下にありながら独立を勝ち取った歴史を持ち、その自由な精神が菓子文化にも表れています。ジュネーヴやローザンヌといったフランス語圏ではフランス菓子の影響を受けながらも、単なるコピーではなく独自のスタイルが生まれています。同様に、チューリッヒなどのドイツ語圏やイタリア語圏の菓子も、それぞれがオリジナリティを持っています。

パティシエたちの帰国後の日本

ヨーロッパ各地で修行を積んだ若手パティシエたちは、新たな知識や技術を日本に持ち帰り、各地で菓子店を開業しました。𠮷田菊次郎氏の「ブールミッシュ」、河田勝彦氏は「オーボンヴュータン」、大山栄蔵氏は「マルメゾン」、横溝春雄氏は「リリエンベルグ」、三嶋隆夫氏は「16区」を開店。それぞれが独自のスタイルと技術を生かし、店を作り上げました。

菓子文化の多様化

当時の日本で提供されていたフランス菓子は伝統的なものが主流でした。しかし、フランスは伝統を重んじながらも革新を続ける国であり、菓子文化も日々進化しています。ドイツやオーストリアでも同様に、新しい技術や情報が取り入れられ、最新の菓子が生み出されていました。

1960年代後半、日本の菓子業界はこうしたヨーロッパの影響を受けながら、技術や知識を進化させていきました。これは、日本の菓子文化が大きく飛躍するきっかけとなりました。

まとめ

海外での修行を経て帰国した菓子職人たちは、それぞれの経験を生かし、日本の菓子文化に新しい風を吹き込みました。特にスイスは多言語、多文化の国として、フランスやドイツ、イタリアの菓子文化に触れる貴重な場所であり、多くの職人たちに影響を与えました。この時代のパティシエたちの努力と情熱が、日本の菓子業界の発展に大きく寄与したのです。

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