ブルボンとは
現在、多くの人に愛されているお菓子メーカー「ブルボン」をご存知でしょうか。「ルマンド」や「アルフォート」といった定番商品で親しまれているこの会社は、実は新潟県柏崎市に本社を置く大手菓子メーカーです。東京にあると思われがちですが、創業から100年近くにわたって新潟の地に根を下ろし続けています。
【創業者】吉田吉造とは
ブルボンの物語は、一人の菓子職人の決意から始まりました。
関東大震災が創業のきっかけ
1923年9月1日、関東大震災が発生し、南関東から東海地方まで広範囲にわたって甚大な被害をもたらしました。この災害は単に建物を壊しただけでなく、人々の生活に欠かせない食品の供給網をも寸断したのです。当時、ビスケットなどの洋菓子を製造する工場は関東近郊にしか存在せず、新潟県への供給が完全に止まってしまいました。
北日本製菓商会を創業(ブルボンの前身)
このような状況を目の当たりにしたのが、新潟県柏崎市で菓子店「最上屋」を営んでいた吉田吉造という人物でした。1886年生まれの吉田は、洋菓子作りを学んだ菓子職人として、地域の人々に愛されるお菓子を作り続けていました。しかし、震災によって都市部からの菓子の供給が途絶えた状況を見て、彼は重要な決断を下します。「地方にも菓子の量産工場が必要だ」という強い信念のもと、1924年1月に個人経営による「北日本製菓商会」を創業したのです。これが現在のブルボンの出発点となりました。
大量生産工場の建設
北日本製菓商会は、柏崎駅前の380坪という広大な土地を購入し、当時としては画期的な日産500貫(約1.9トン)の生産能力を持つ大量生産工場を建設しました。この工場の稼働により、全国への販路拡大が実現し、市場に大きな影響を与えました。当時「100匁22銭だったビスケットが、北日本製菓商会ができたことで18銭になった」と評されるほど、価格競争力のある製品を全国市場に供給することができたのです。
度重なる災難
しかし、順風満帆な船出とはいきませんでした。1924年9月25日、操業開始から間もない工場が火災で全焼してしまいます。創業者にとって、まさに絶望的な状況でした。しかし、地元柏崎市内の有志たちが協力と支援の手を差し伸べ、この困難を乗り越える力となりました。こうした地域の温かい支援を受けて、同年11月20日、資本金10万円で「北日本製菓株式会社」として会社を再設立することができたのです。この日が、現在のブルボンの正式な設立日となっています。
事業拡大
設立間もない頃の生産品目は、ビスケットとキャンデーが中心でした。これらの製品は徐々に評判を呼び、販路は日本全国はもちろん、当時の日本の領土であった樺太、台湾、朝鮮半島北部にまで拡大していきました。1931年にはチューインガムの製造を開始し、翌1932年には東京販売所を設立して首都圏での販売体制を強化しました。さらに1934年には、新潟県が米どころであることを活かし、米菓の製造も開始しています。
自然災害との闘い
順調に事業を拡大していた北日本製菓でしたが、自然災害との闘いは続きました。1944年7月、柏崎市内を流れる鵜川が氾濫し、全工場が最大1メートル50センチメートルも浸水する被害を受けました。翌1945年7月には、再び鵜川と鯖石川の洪水により全工場が浸水し、大きな損害を被りました。戦後復興期の1947年には、近隣住宅からの火災が延焼し、全工場の6割を焼失するという災難にも見舞われました。さらに1952年6月には、工場内部からの出火により工場1棟が全焼してしまいます。
これらの度重なる災害に直面しても、会社は決して諦めることはありませんでした。残った工場で生産を継続しながら、その都度、より良い設備を導入して工場の再建を図りました。特に1952年の火災後には、即座に3倍の生産能力を持った設備を導入し、従業員たちも作業時間を延長して協力するなど、一丸となって復旧に努めました。この不屈の精神が、後の大きな発展の基礎となったのです。
物流改善への取り組み
創業者である吉田吉造は、製品の品質向上だけでなく、物流面でも大きな課題に直面していました。消費地である関東・関西から距離のある新潟県柏崎市に工場を持つことは、輸送面において極めて不利な条件でした。海外や全国から原材料を工場まで運び、完成した製品を全国の消費地へ送り届けるという輸送において、日本海側の工場は太平洋側の工場と比べて大きなハンディキャップがありました。運賃が高いだけでなく、輸送中の製品破損による損失も深刻な問題でした。
国鉄への陳情と成果
この問題を解決するため、吉田吉造は1953年5月、当時の国鉄(現在のJR)などに対して鉄道貨物輸送の改善を求める意見書の提出と陳情を行いました。その結果、国鉄の協力を得て輸送運賃の割引制度を実現し、さらに柏崎駅を日本海側では初めての大型1トンコンテナ指定駅として認めてもらうことに成功しました。これらの取り組みは、会社の発展に大きく寄与することになりました。
株式上場と二代目への継承
事業拡大に伴い、1954年4月1日、株式を新潟証券取引所に上場しました。初値は58円(額面50円)で、柏崎市で設立された企業として初めての株式上場という歴史的な出来事でした。しかし、同年6月、創業者である吉田吉造が68歳で亡くなり、長男の吉田順二が二代目社長として就任することになりました。
【第二代目社長】吉田順二とは
二代目社長の吉田順二は、父親譲りの菓子作りへの情熱を持ち、会社を近代化へと導きました。
社長の就任と経営手腕
二代目社長の吉田順二は、父親譲りの菓子作りへの情熱を持ち、特にカステラなどの焼き菓子においては右に出る者がいないと言われるほどの技術を身につけていました。職人気質でありながら経営者としての才覚も備えており、先代社長のそばで経営のノウハウを学んでいました。自身の辛抱強い性格と柔らかな人柄で、戦後の統制経済という困難な時代にあっても工夫を凝らし、会社の発展に尽力しました。
近代設備の導入と量産化への挑戦
吉田順二が社長に就任すると、品種拡大と製品の品質向上を目指し、近代設備の導入による量産化に本格的に取り組み始めました。当時専務だった息子の吉田高章を菓子業界視察のためヨーロッパに派遣し、最先端の技術と新しい視野を会社に取り入れました。そして、自動クリームサンド製造機やソフトビスケット製造機を次々と導入し、工場設備の近代化を加速させていきました。
「バンドオーブン」の導入
1957年、会社の将来を左右する重要な決断を下します。それは、ビスケット・クッキーの大量消費時代の到来を予測した「バンドオーブン」の導入でした。バンドオーブンとは、ビスケットやクッキーを焼き上げるベルトコンベヤー式のオーブンで、現代の製造には欠かせない基本設備です。しかし、当時はまだ珍しい設備で、年商10億円に満たなかった会社にとっては、まさに社運を賭けた投資でした。それでも吉田順二は、会社を国内指折りの企業に成長させるため、この大胆な投資を決断したのです。
「羽衣あられ」の誕生とロングセラー
この時期の技術革新により、1961年には「羽衣あられ」という画期的な商品を発売しました。その薄い形状を天女の羽衣に例えたこの米菓は、「世の中で一番薄いあられ」を目指して開発されました。国産もち米の豊かな風味、カリッと心地よい食感、ほどよい塩味と後を引く旨味で、現在でも多くの人に愛され続けています。実は、この「羽衣あられ」は、現在販売されているブルボンの商品の中で最も長く販売されている商品なのです。
会社規模の拡大
機械設備の近代化と量産体制の確立、羽衣あられのヒットなどにより、この時期の年商は20億円を超える規模にまで成長しました。1963年には、柏崎市荒浜地区に現在の柏崎工場を新設し、バンドオーブン2基や輸入包装機5基を備えた一貫した生産体制を構築しました。これにより生産ラインの合理化が実現し、さらなる飛躍への基盤が整いました。
後継者へのバトンタッチ
1964年、次世代への道筋を整えた吉田順二は社長職を退き、専務だった吉田高章が三代目社長に就任しました。新社長はビスケット設備のオートメーション化をさらに推進するとともに、日本で初めて米菓生産のオートメーション化を実現するという快挙を成し遂げました。
【第三代目社長】吉田高章とは
三代目社長の吉田高章は、現在の社名にもなっている「ブルボン」ブランドを確立し、会社を飛躍的に成長させました。
「ブルボン」ブランドの誕生
この時期に誕生したのが、現在でもおなじみの「ブルボン」というブランド名です。専務時代の1961年、吉田高章は高級感のある洋風の菓子、飲料、食品にふさわしい商標として「ブルボン」を考案し、出願しました。翌1962年から使用を開始し、晴れて「ブルボン」ブランドが誕生したのです。このブランド名は、フランスの王朝名であるブルボン朝から着想を得たもので、上品で高級感のあるイメージを演出することを目的としていました。
ブランド浸透
その後、「ブルボンビスケット」「お菓子のブルボン」として洋風菓子商品の総称として徐々に範囲を広げ、ブランドの浸透を図っていきました。高級感のあるビスケット商品の量産化や、他社との差別化を図った独特な商品を次々と発売し、それらをお手頃価格で販売することで、徹底した顧客重視の姿勢を貫きました。
「ルマンド」の大ヒット
1965年に発売した「ホワイトロリータ」は、ミルク風味のホワイトクリームクッキーとして大きな話題となりました。そして1974年には、後にブルボンの代名詞となる「ルマンド」が誕生します。
「ルマンド」開発秘話
この商品の開発には興味深いエピソードがあります。当時の開発担当者が新製品のアイデアを考えていた際、紙をくしゃくしゃにした時の独特な形からヒントを得たのです。
しかし、薄く延ばされて層になり、不規則な形をしたクレープ生地を大量に安定して生産することは大きな技術的課題でした。機械開発部門と製品開発部門が試験室や工場で何度も試作を重ね、ついに独自の成型手法を完成させました。また、この商品のために極めて珍しかった液体マーガリンを原材料メーカーと共同で開発するなど、技術革新の面でも大きな進歩をもたらしました。
「ルマンド」のもう一つの特徴は、ほんのり甘いココアクリームです。このクリームは、ホワイトクリームをベースに、甘さを抑えるためにココアを加え、飽きのこない味に仕上げるよう工夫して開発されました。商品名の「ルマンド」は、フランス語の「Le Monde(ル・モンド)」=「世界」に由来する造語で、開発担当者が世界に広がるお菓子になってほしいという願いを込めて名付けました。
パッケージデザインも革新的でした。紫を基調としたシンプルで品格のあるデザインは、当時の食品業界では紫色がタブーとされていた常識を覆す大胆な発想でした。しかし、この斬新なデザインが高級感を演出し、商品の差別化に大きく貢献しました。
記録的な販売
1974年2月、2本入り25円で全国発売を開始した「ルマンド」は、5月に150円タイプの発売とテレビCMの放映をきっかけに爆発的な人気を博しました。ピーク時には月間販売額20億円という、当時の菓子業界では記録的な売上を達成しました。その人気ぶりは凄まじく、納品を待ちきれない問屋のトラックが工場まで買い付けに来るほどで、毎月のようにルマンド専用の生産ラインが増設される状況でした。
売上の倍増
この「ルマンド」の大ヒットにより、1974年から1975年にかけて会社の年間売上は200億円から405億円へと、わずか1年間で倍増するという驚異的な成長を遂げました。こうして「ルマンド」は会社の代名詞のような存在となり、ブルボンの知名度を全国レベルに押し上げることになったのです。
業界トップクラスへ
会社規模の拡大とともに、経営基盤の整備にも力を注ぎました。「発展八訓」や「利害相反する人を含めて、集団の生存性を高める」という経営理念を制定し、今日につながる経営基盤を確立していきました。1980年を迎える頃には、年商600億円に迫る規模となり、製菓業界で押しも押されもせぬ大手企業として確固たる地位を築き上げました。
現在のブルボン
現在のブルボンは、多様な商品ラインナップと、地域や環境への貢献を両立させています。
豊富な商品ラインナップ
現在のブルボンは、ビスケット・クッキー類を中心とした豊富な商品ラインナップを誇っています。創業当時からの強みであるビスケット製造技術を活かし、「レーズンサンド」「チョコリエール」「ルーベラ」「ホワイトロリータ」など、昭和40年代以来のロングセラー商品を多数擁しています。
チョコレート菓子
また、チョコレート菓子分野への進出も積極的に行い、得意の焼き菓子とチョコレートの新たな融合を図った「エリーゼ」、高級洋菓子店の生チョコレートを模した「トリュフ」、そして「アルフォート」「ブランチュール」など、新たな定番シリーズを次々と生み出すことに成功しています。
若年層・子供向け商品
若年層向けには1996年に発売した「プチアンドプチポテトシリーズ」が大ヒットし、定番商品に成長しています。子供向け製品としては「エブリバーガー」「チョコあ~んぱん」「きこりの切株」などもラインナップしています。
米菓と飲料・デザート
米どころ新潟に根を下ろす菓子メーカーとして、1934年から続く米菓製造の伝統も大切にしています。1966年には日本で初めて米菓製造のオートメーション化に成功し、現在では「チーズおかき」「羽衣あられ」「味ごのみ」「ピッカラ」などが人気を博しています。
さらに、菓子製造で培った技術を活かし、山形県庄内地方の出羽三山からの湧水を使用したミネラルウォーター、各種ソフトドリンク、デザートゼリー類なども手がけています。これらの事業拡大により、現在では洋菓子を中心とする業界五指に入る大手メーカーとしての地位を確立しています。
新本社ビルと地域貢献
2015年3月には、柏崎駅前に地上13階、高さ59メートルの新本社ビルが完成しました。建築家の遠藤秀平氏が設計を手がけ、「安定性と多様性」をコンセプトとした現代的な建物です。耐震性の高いコンクリート充填鋼管構造を採用し、洪水や津波などの災害時でも中枢機能を維持できるよう、主要設備を高層階に設置しています。
また、災害時にはビル内の食堂を市民に開放し、避難所として提供することも明らかにされており、地域社会への貢献も考慮された設計となっています。
環境への配慮
環境への配慮も重要な取り組みの一つです。近年、公益財団法人日本包装技術協会主催の「日本パッケージングコンテスト」において、環境配慮型包材を使用した商品で複数回の受賞を果たしています。包材の薄肉化やバイオマスフィルムの採用により、プラスチック使用量と温室効果ガスの削減に積極的に取り組んでいます。
まとめ
現在のブルボンは、創業から約100年の歴史を重ね、新潟県柏崎市から全国、そして世界へとお菓子を届け続けています。
関東大震災をきっかけとした一人の菓子職人の決意から始まった小さな会社が、度重なる災害を乗り越え、技術革新と品質向上への飽くなき探求により、日本を代表する菓子メーカーへと成長を遂げた物語。それは、地方から全国へ、そして世界へと夢を広げ続ける、まさに現代の成功物語と言えるでしょう。
コーポレートスローガンである「おいしい笑顔の真ん中に」「おいしさ、思いやり、いつもいっしょに。」の通り、ブルボンは今後も人々の笑顔と幸せな時間を創造し続けていくことでしょう。