マンゴーブーム
日本でマンゴーが広く知られるようになったのは、2つの大きな流行がきっかけでした。
1990年代に起きた最初の波は「マンゴープリン」の流行、そして2000年代の第二の波は、生のマンゴーそのものが主役になったブームです。
1995年:マンゴープリンの流行
最初のブームは、香港の食文化への関心が高まったことが背景にあります。
マンゴープリンとは、マンゴーをゼラチンや寒天などで固めて作る冷たいデザートのことです。香港の飲茶店などで親しまれていて、日本でも広く知られるようになりました。
1990年代には、日本の旅番組や雑誌が香港のスイーツを積極的に取り上げるようになりました。その中でマンゴープリンは「香港を代表するデザート」として紹介され、一気に多くの人に知られることになりました。その結果、デパートの食品売り場や中華レストランで提供されるようになり、家庭で作るための材料も販売されるようになりました。
この流行の中心は、あくまで「プリン」という特定のメニューでした。マンゴーの分かりやすい香りや色が受け入れられ、子どもたちにも親しまれましたが、この時期に生のマンゴーの消費が大きく増えることはありませんでした。

2000年代:生のマンゴーが主役に
2度目のブームは、マンゴーそのものに焦点が当てられました。
この時期には、輸入体制が整い、国内でのマンゴー栽培も進んだことで、生のマンゴーの供給が安定しました。その結果、タルトやケーキ、ムース、ゼリーなど、様々な形のお菓子に生のマンゴーが使われるようになり、カフェやコンビニでもマンゴースイーツが定番となりました。
パティシエたちは、マンゴーの豊かな香りと味を活かして、新しいお菓子を次々と生み出しました。例えば、マンゴーをピューレにして固めるムースや、卵黄と牛乳を使ったクリームを冷やし固めるババロア、そしてスポンジとムースを何層にも重ねた大きなケーキ「エントルメ」など、マンゴーを使った様々なスイーツが登場しました。
このブームを象徴するものとして、宮崎県産の高級マンゴー「太陽のタマゴ」が注目されました。これは、重さや糖度、色づきなどの厳しい基準をクリアしたものだけで、贈答品としても人気を博しました。初競りでは、2玉で50万円、年によっては70万円といった高値がつくこともあり、ニュースでも大きく取り上げられました。
マンゴーの供給を支えた流通
生のマンゴーが安定して手に入るようになった背景には、検疫や流通に関わる技術的な進歩がありました。
日本に植物を持ち込む際には、法律で定められた検査と証明書の提示が求められます。これは、外国の害虫が日本に入ってくるのを防ぐためで、果物も対象となります。
マンゴーの多くは、輸入される前に「蒸熱処理」と呼ばれる加熱処理が施されます。この処理によって、果物についた害虫を防除し、品質を保ったまま日本に届けることができるようになりました。主な輸入元は、タイ、台湾、フィリピン、メキシコ、ベトナムなど、多岐にわたります。
マンゴーブームが与えた影響
かつては、日本で身近な南国フルーツといえば、バナナやパイナップルくらいしかありませんでした。しかし、マンゴーの流行をきっかけに、パッションフルーツやスターフルーツ、マンゴスチンといった、これまであまり知られていなかった様々なトロピカルフルーツが広く知られるようになりました。
スイーツの多様化
マンゴーを軸に、酸味や香りの強いフルーツがスイーツに使われるようになりました。夏季限定のタルトやパフェが定番化したのも、このブームの成果と言えるでしょう。
外食と小売の相乗効果
レストランやカフェがマンゴースイーツを提供して話題を作り、その人気を受けてスーパーやコンビニがマンゴー関連商品を増やしました。この良い循環が、新しい商品の開発を加速させ、マンゴーを「特別な存在」から「身近な選択肢」へと変えていきました。
贈答文化と高級果物市場
高品質な国産マンゴーは、お中元などの贈り物として価値を確立しました。品質の基準が明確に示されたことで、消費者も安心してその価値を判断できるようになりました。
まとめ
第一の波はマンゴープリンが中心となり、中華デザートの魅力を広げました。続く第二の波は生のマンゴーが主役となり、日本のスイーツ文化を大きく豊かにしました。
これらのブームは、検疫や流通技術の進歩に支えられ、結果として、トロピカルフルーツは私たちの日常的な選択肢となりました。マンゴーは、日本の食の世界を広げるきっかけを作ったと言えるでしょう。
また、「1995年のマンゴープリン流行が香港返還の直接的な原因」と断定はできませんが、当時の国際情勢が香港の食文化への関心を高めたのは事実です。
価格の記録は毎年変動するため、最新の情報を知りたい場合は、その年のニュースを確認する必要があります。