ザッハトルテとは|簡単に作り方と発祥起源を説明

チョコレートケーキと聞くと、多くの人が思い浮かべるのは、ココアパウダーを混ぜた生地にチョコレートクリームを塗ったり挟んだりしたものかもしれません。
しかし、オーストリアには「ザッハトルテ」という、他のチョコレートケーキとは明確に異なる特徴を持つケーキが存在します。
このケーキを理解するために、まずその基本的な構造から見ていきましょう。
ザッハトルテとは
ザッハトルテは、チョコレート風味のスポンジケーキを土台とし、その間と表面にアプリコット、つまりあんずのジャムを塗り、最後に全体をチョコレートフォンダンという糖衣でコーティングしたケーキです。
この構造を構成する3つの要素について説明します。
スポンジケーキの土台
ザッハトルテの土台となるのは、チョコレート風味のスポンジケーキです。
この生地は「ザッハマッセ」と呼ばれる手法で作られ、チョコレートを多く含む濃厚な生地が特徴です。
一般的なスポンジケーキが軽やかな食感なのに対し、ザッハトルテの生地はより重厚で、しっとりとした質感を持っています。
アプリコットジャムで味付け
ザッハトルテでは、スポンジケーキの間と表面にアプリコット、つまりあんずのジャムを塗ります。
このジャムが使われるのは、その特有の甘酸っぱい風味に理由があります。
アプリコットの酸味は、濃厚で甘いチョコレートとの絶妙なバランスを生み出します。
チョコレートフォンダンでコーティング
最後に、全体をチョコレートフォンダンでコーティングします。
フォンダンとは、砂糖と水、水あめなどを煮詰めたシロップにチョコレートを加えて作られるものです。
冷えて固まると、シャリシャリとした独特の食感を生み出します。
ザッハトルテの歴史
ザッハトルテがどのようにして生まれたのか、その歴史的背景を探ってみましょう。
誕生の背景
時は1832年、オーストリア帝国の首都ウィーンでのことです。
当時のオーストリアは、ヨーロッパの政治的中心でした。
その中心人物であった宰相のクレメンス・フォン・メッテルニヒが、宴会で供するための新しいデザートを専属の料理長に命じました。
しかし、その日に料理長が病気で倒れてしまい、見習いコックのフランツ・ザッハーがその重責を担うことになりました。
当時フランツはわずか16歳で、修業を始めてから2年目という経験の浅い若者でした。
宴会での評判
フランツが作り上げたのが、ザッハトルテの原型となるケーキです。
このケーキは宴会で好評を博しました。
当時すでにチョコレートケーキは存在していましたが、フランツが考案したケーキにはそれまでにない特徴がありました。
それが、艶やかなチョコレートフォンダンで全体を覆うという手法です。
この技法により、見た目に美しく、かつ食感にも変化のあるケーキが生まれました。
フランツの修業
宴会での成功にもかかわらず、この時点では特別な名前も付けられず、メッテルニヒ邸の特製デザートという扱いでした。
フランツはその後、料理人としてのキャリアを積むため、ウィーンを離れることになります。
彼はプレスブルクやブダペスト、そしてドナウ川の蒸気船でシェフを担当するなど、様々な場所で料理人としての腕を磨きました。
「ザッハトルテ」という名前の誕生
1848年、フランツは故郷ウィーンに戻り、ヴァイブルクガッセに自分の店を開きました。
ここで初めて、あのケーキが「フランツ・ザッハーのチョコレート菓子」として正式に販売されることになりました。
この時点で、ケーキに考案者の名前が冠されることになったのです。
店は多くの客で賑わい、ウィーンを代表する洋菓子店として知られるようになりました。
ホテルの名物菓子へ
フランツの死後、彼の遺志を継いだのは次男のエドゥアルトでした。
エドゥアルトは1876年に、ウィーン国立歌劇場の隣にホテル・ザッハーを開業しました。
父が作り上げたザッハトルテは、このホテルの名物菓子として提供されるようになり、ウィーンの銘菓としての地位を確立していきました。
ホテルの経営危機
エドゥアルトの妻アンナの手腕により、ホテル・ザッハーは貴族や外交官が宿泊する格式の高いホテルへと成長しました。
しかし、第一次世界大戦後の政治的・経済的混乱に加え、1929年の世界恐慌の影響も重なって、ホテル・ザッハーは1934年に経営難に陥り、倒産してしまいました。
この危機的状況において、デメルという王室御用達の菓子店が救いの手を差し伸べました。
デメルは資金援助を行う代償として、門外不出とされてきたザッハトルテのレシピと販売権を手に入れました。
商標権をめぐる甘い戦争
1938年には新たなオーナーがホテル・ザッハーを買収し、デメルとは独立して「オリジナル・ザッハトルテ」の販売を開始したのです。
これに対し、戦後の1954年、ホテル・ザッハーのオーナーが商標権を主張してデメルを提訴しました。
この裁判は、通称「甘い戦争」と呼ばれました。
争点は多岐にわたり、どちらが「オリジナル・ザッハトルテ」を名乗る権利があるか、そしてレシピの詳細に至るまでが法廷で議論されました。
裁判の決着と両者の違い
7年間続いた裁判は、1963年にようやく示談が成立しました。
最終的な決着は、双方に「ザッハトルテ」の販売権を認める一方で、異なる名称を使用することが条件とされました。
ホテル・ザッハーは「オリジナル・ザッハトルテ」を、デメルは「デメルのザッハトルテ」を販売することになったのです。
この決着により、両者のザッハトルテには見た目でも区別できる特徴が生まれました。
ホテル・ザッハーのザッハトルテには丸いチョコレートのエンブレムが、デメルのザッハトルテには三角形のエンブレムがそれぞれ装飾されています。
ザッハトルテの作り方
生地作り
まず生地作りですが、これは一般的なスポンジケーキとは異なる手法を用います。
バターと砂糖、卵黄、溶かしたチョコレートを混ぜ合わせ、そこに泡立てた卵白(メレンゲ)と小麦粉を加えて焼き上げます。
この手法は「ザッハマッセ」と呼ばれ、濃厚でしっとりとした生地が特徴です。
ジャムの使用
焼き上がった生地は、水平に二等分して層を作ります。
下の層の上面にアプリコットジャムを塗り、上の層を重ね合わせます。
さらに、ケーキ全体の表面にもアプリコットジャムを均等に塗り広げます。
このアプリコットジャムの使用が、ザッハトルテを他のチョコレートケーキと区別する決定的な要素となります。
チョコレートフォンダンによるコーティング
最後の工程が、チョコレートフォンダンによるコーティングです。
フォンダンの作成は、砂糖と水、水あめを煮詰めてから、溶かしたチョコレートを加えて作られます。
完成したフォンダンは、温かいうちにケーキ全体に流し、表面を滑らかに整えます。
うまくコーティングされたザッハトルテは、鏡のような艶やかな表面を持ち、カットした時にはパリッとした音を立てます。
本場ウィーンでの食べ方
本場ウィーンでのザッハトルテの食べ方についても知っておきましょう。
無糖の生クリームの役割
ウィーンのカフェや高級ホテルでザッハトルテを注文すると、必ず砂糖を加えずに泡立てた無糖の生クリームが添えられます。
ザッハトルテは非常に甘く、また濃厚なケーキです。
無糖の生クリームのまろやかなコクは、この強い甘さを和らげ、口の中でバランスの取れた味わいを作り出します。
コーヒーとの組み合わせ
ウィーンの深いカフェ文化において、ザッハトルテはコーヒーと共に楽しまれるのが伝統です。
特に、ウインナーコーヒーのような、生クリームをたっぷりと浮かべたコーヒーとの組み合わせが好まれます。
コーヒーの苦味が、ケーキの甘さとのコントラストを生み出し、一口ずつ交互に味わうことで、それぞれの風味が引き立てられます。
ザッハトルテの現在の位置づけ
現在では、ホテル・ザッハーとデメル以外の多くの企業やカフェ、レストランでも「ザッハトルテ」という名前のチョコレートケーキが提供されています。
これは、長期間の法廷闘争を経て、「ザッハトルテ」という名称自体が、このタイプのチョコレートケーキの一般的な呼び名として社会に定着したためです。
しかし、伝統的な意味でのザッハトルテと呼べるものには、明確な条件があります。
チョコレート風味の生地を使用すること、アプリコットジャムを間に挟み表面に塗ること、そしてチョコレートフォンダンで全体をコーティングすることです。
これらの条件を満たさないものは、チョコレートケーキではあっても、厳密にはザッハトルテとは言えません。
まとめ
ザッハトルテの物語は、一人の若い見習いコックの創作から始まり、家族三代にわたる情熱と努力、そして7年間に及ぶ法廷闘争を経て、世界的に知られるお菓子となりました。
この歴史には、オーストリア帝国の栄光と衰退、二度の世界大戦、そして戦後復興という、19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパの激動の時代が深く関わっています。
単なるお菓子の域を超えて、ザッハトルテはウィーンの文化的アイデンティティの一部となり、オーストリアの誇りある伝統として、現在も世界中の人々に愛され続けています。