カステラの発祥起源
カステラは16世紀にポルトガル人によって日本にもたらされた「南蛮菓子」の一つです。
長崎は南蛮貿易の中心地として西洋文化を積極的に取り入れた土地であり、カステラはその象徴的な存在でした。
卵や砂糖、小麦粉という日本では高価だった素材を用いたカステラは、当初は貴族や上流階級の間で楽しまれる特別なお菓子でした。
やがて時代が進むにつれて長崎を拠点にカステラ職人たちが製法を磨き、地元特産として根付いていきました。
文明堂のカステラの発祥起源
中川安五郎が文明堂を創業する
明治33年(1900年)、長崎市でカステラ作りを学んだ中川安五郎は「文明堂」を創業します。
当時は文明開化の波に乗り、新しい文化や製品が求められていた時代背景がありました。
中川は職人気質を活かしながら独立した小さな店舗で事業を始めました。
宮崎甚左衛門がカステラ職人になる
中川安五郎の弟である宮崎甚左衛門は明治40年(1909年)に文明堂に加わり、カステラ職人として修業を開始しました。
彼はその後、類い稀な技術と努力で「カステラ甚左」と呼ばれるほどの存在となり、大正5年(1916年)には佐世保に独自の店舗を構えました。
兄弟の連携による製品の品質向上と販路拡大への尽力は、文明堂の成長を一層加速させました。
事業開始からわずか30年後には文明堂一家で日本国内のカステラ生産の過半数を占めるほどの成功を収めています。
文明堂が人気になるまでの歴史
文明堂の東京進出と関東大震災
大正11年(1922年)、文明堂は全国展開の一環として、東京・下谷区に新店舗を開業しました。
この進出は日本の中心地である東京市場での地位確立を目指したものでしたが、翌年の関東大震災で店舗が全焼し、甚大な被害を受けました。
この逆境にも負けず、再起を図った甚左衛門の姿勢は多くの人々を驚かせました。
その後の実演販売や品質向上への取り組みは文明堂のブランドイメージをさらに高める結果となりました。
三越との契約と試練の連続
文明堂は大正11年に三越との納入契約を結び、大量注文を受ける形で事業を拡大しましたが、大量生産に伴う課題もありました。
三越に納品された商品にカビが生えて返品されるという事件が発生したのです。
しかしその際、甚左衛門は名誉挽回のために実演販売を提案して大成功を収めます。
しかし次は、三越系スーパーの「二幸」が文明堂職人をスカウトして競合製品を製造するという問題も発生しました。
このトラブルにより甚左衛門は三越との縁を自ら断つ選択をしましたが、その後も事業を拡大して三越の拠点近くに自店舗を展開していきました。
カステラの全国展開と文化的地位
カステラはその後、和洋を融合させた独自のスイーツとして日本全土に広がりました。
長崎の特産物としての地位を超え、家庭や贈答品としても親しまれるスタンダードなお菓子となったのです。
文明堂の努力と幾多の試練を乗り越えた職人たちの情熱がカステラを日本文化の一部へと昇華させました。
このお菓子が持つ歴史的背景は今日も人々の記憶に残り続けています。