最初にカステラを作ったのは、ポルトガルの宣教師や貿易商たちです。
彼らが16世紀中頃、日本にカステラの原型となる菓子を持ち込んだことが始まりとされています。
その後、日本で初めてカステラを製造し、豊臣秀吉に献上した人物として知られているのが村山等安です。
彼は、日本人として初めて南蛮菓子を作り、広める役割を果たしました。
そして、江戸時代初期には、福砂屋(1624年創業)や松翁軒(1681年創業)といった長崎の老舗店が登場し、日本の風土や味覚に合ったカステラの製法を確立していきました。。
つまり、カステラの「最初の作り手」は、一人ではなく下記のような複数の立場から見る必要があります。
- 日本に原型を伝えた【ポルトガル人】
- 初めて製造し献上した【村山等安】
- 商業化を推進した【長崎の老舗菓子商】
本記事では、それぞれの「作り手」が果たした役割と、その根拠を歴史的にひもときながら、カステラがどのようにして現在の姿になったのかを詳しくご紹介します。カステラは、そのしっとりとした甘さだけでなく、奥深い歴史を知ることでも魅力を感じることができます。
最初にカステラを作った人は誰?
カステラを最初に作った人は諸説ありますが、あえて言うならば日本の場合「村山等安(むらやま とうあん)」という人物が最も有力です。
彼は16世紀末、豊臣秀吉にカステラを献上した記録があり、これが「日本人として最初にカステラを作った人物」とされています。
ただし、そのカステラの製法自体は、16世紀中頃にポルトガル人が日本に伝えたものです。さらに言えば、ポルトガル人が持ち込んだお菓子のルーツはスペインやポルトガルの伝統菓子にさかのぼります。
つまり、「誰が最初にカステラを作ったか」は、次の3つの観点から見る必要があります。
- 原型をヨーロッパで作った人々
- その製法を日本に伝えたポルトガル人
- 日本で初めて製造した村山等安
- そして今の「長崎カステラ」を確立した老舗店
以下では、それぞれの立場と背景をわかりやすく解説します。
カステラのルーツとヨーロッパの菓子文化
カステラは日本独自の進化を遂げた菓子ですが、その原型はヨーロッパにあります。特に下記で紹介するスペインとポルトガルで親しまれていた伝統菓子が、日本のカステラの起源とされています。どちらも大航海時代の食文化と深く関わっており、保存性や宗教行事との結びつきが大きな特徴です。
スペインの「ビスコチョ」説
カステラの原型の一つとされるのが、スペインの「ビスコチョ(Bizcocho)」です。
このお菓子は長期保存が可能で、主に航海中の保存食として重宝されていました。語源はラテン語の「ビス・コクトゥス(bis coctus)」で、「2度焼かれたもの」という意味です。実際に、最初に焼いてから乾燥させる製法が取られていたと考えられています。
また、「カステラ」という名前の語感が、当時のスペインの地方名「カスティーリャ王国(Castilla)」に由来しているという説もあります。つまり、ビスコチョはその製法と名前の両面で、カステラとのつながりが指摘されているのです。
ポルトガルの「パン・デ・ロー」説
もう一つの有力なルーツが、ポルトガルの「パン・デ・ロー(Pão de Ló)」です。
これは卵をふんだんに使ったスポンジ状のケーキで、16世紀のポルトガルでは修道院で作られていました。当時の修道院では、卵白を修道服の糊付けなどに使い、余った卵黄をお菓子作りに活用していました。そのため、卵を多く使う「パン・デ・ロー」のような菓子が誕生したとも言われています。
キリスト教の祭礼や重要な宗教行事で振る舞われることが多く、「聖なる菓子」として特別な存在でした。
日本にこのお菓子を伝えたのは、長崎に来航したポルトガル人の宣教師や商人たちです。とくに天正遣欧少年使節が持ち帰った記録などにも見られるように、彼らは単に文化を伝えただけでなく、その菓子作りの技術も日本に根付かせていきました。
パン・デ・ローは卵と砂糖、小麦粉を使ったシンプルなレシピでありながら、焼き加減によってさまざまな食感が楽しめるのが特徴です。この特性は、のちの日本のカステラにも受け継がれているようにも見えます。
「カステラ」という名前の由来
「カステラ」という名前は、スペインの「カスティーリャ王国(Castilla)」や、その地方にちなんだ菓子名「パン・デ・カステーラ(カスティーリャ風のパン)」から来ているという説が有力です。ポルトガル語では「カステーラ(Castela)」と発音され、日本語に転化する過程で「カステラ」となりました。
カスティーリャ王国は、当時のヨーロッパの強大な王国の一つで、日本にやってきた宣教師たちがその国名を通じて文化や品物を紹介していました。
ポルトガル語では「Castela(カステーラ)」と発音されており、日本語に取り入れられる過程で「カステラ」という呼び方が定着しました。ただし、ポルトガルやスペインに「カステラ」という名前の菓子は実際には存在していません。
このことから、「名前はヨーロッパ由来、中身は日本独自」というユニークな特徴を持った菓子であることがわかります。つまり、日本で作られるカステラは、先ほど挙げたような海外の菓子をヒントにしながらも、完全に別物として発展していったということですね。
カステラが日本にやってきた時代背景
カステラが日本に伝わったのは、1543年にポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えたのと同じ時代です。
この頃から始まったのが「南蛮貿易」と呼ばれる国際交流です。
当時の日本は戦国時代の只中にあり、ヨーロッパとの交流を求める動きが活発化。長崎は南蛮貿易の拠点として重要な役割を果たし、ポルトガルの宣教師や商人たちが次々と訪れました。
こうした交流を通じて、西洋の食文化も日本に持ち込まれます。カステラのほか、コンペイトウ(砂糖菓子)やビスケット、パンなどもこの時期に紹介され、「南蛮菓子」として日本の食卓に登場するようになりました。
日本で最初にカステラを作った人物:村山等安
カステラを日本人として初めて本格的に作ったとされるのが、南蛮菓子職人の村山等安(むらやま・とうあん)です。彼は尾張国(現在の愛知県)出身で、南蛮文化に強い興味を持ち、長崎で菓子作りを学びました。
等安は1592年、豊臣秀吉の御前でカステラをふるまったとされる記録が残っています。これが日本史上における「カステラの初登場」とされるエピソードです。秀吉はこの菓子を非常に気に入り、等安に対して特別な信頼を寄せるようになります。その後、彼は長崎奉行や代官としても重要な地位に就いたと伝えられています。
等安の活躍によって、カステラは日本国内での認知を広げるきっかけとなり、南蛮菓子から「和風洋菓子」への第一歩を踏み出したのです。
老舗菓子店が日本の風土に合ったカステラへと改良
村山等安によって日本に根付いたカステラは、やがて日本各地の職人たちによって改良が加えられ、独自の菓子文化として発展していきます。
中でも代表的なのが、長崎に拠点を置く老舗菓子店「福砂屋(ふくさや)」と「松翁軒(しょうおうけん)」です。福砂屋は1624年創業、松翁軒は1681年創業と、いずれも400年近い歴史を持つ老舗です。
彼らはポルトガルから伝わった製法をもとに、日本の気候や食材、味覚に合わせて少しずつ改良を重ねていきました。たとえば、日本人に好まれるよう、甘みを強くしたり、卵の風味を活かす工夫がなされました。
カステラの独自進化と全国普及
カステラは日本に根付いたあと、さらに日本独自の工夫によって大きく進化を遂げます。とくに水飴や上白糖など、和菓子で使われる素材を取り入れたことで、しっとりとした食感とまろやかな甘さが実現されました。
また、保存性が高く、日持ちする点も日本人の生活スタイルに合っていたため、手土産や贈答品としても広まりました。とくに長崎では砂糖が手に入りやすく、甘い菓子文化が発達したことも、カステラの普及に拍車をかけました。
明治時代に入ると、文明堂が創業し、カステラの量産化と全国展開をスタートさせます。包装技術や流通の進歩とともに、カステラは全国各地で親しまれる存在となりました。
現在では、地域ごとに独自のカステラが作られるようになり、抹茶味や黒糖味、蜂蜜入りなど、多彩なバリエーションが登場しています。
まとめ
- ヨーロッパで原型を作った職人たち
- それを日本に持ち込んだポルトガル人
- 初めて作って献上した村山等安
- 現在の形へと進化させた長崎の老舗菓子店
このように、カステラの歴史は多くの人々の知恵と工夫によって形づくられてきました。
「最初の作り手」という問いは、誰か一人の名前で完結するのではなく、歴史をつないだ人々の物語として理解することが大切です。