米津恒次郎の洋行
明治11年(1884年)、東京・日本橋区両国の菓子店「米津風月堂」の次男である米津恒次郎は家業の銀座分店を任されていました。
しかし、彼は父・松造の期待に応えるべく一歩先を見据えた決断を下します。当時の日本では珍しい海外留学を目指し、アメリカを経由してヨーロッパへの旅に出たのです。
その学びは合計7年間に及び、帰国後の明治33年(1890年)には、米津風月堂の銀座分店をさらに発展させる基盤を築きました。
ヨーロッパではロンドンとパリを拠点に学びながら、現地の菓子文化や技術を吸収し、フランス料理の奥深さにも触れます。この洋行は『東京日日新聞』でも大きく報じられ、多くの人々の関心を引きました。
米津凮月堂 銀座分店の成長
ヨーロッパ滞在中、恒次郎は特にフランス料理の技術に力を入れ、日本人として初めて本場の味を学びました。これにより日本の食文化における洋食の普及が大きく進みます。
帰国後はこれまでの和菓子主体の店構えに洋菓子や洋食を加え、銀座分店は時代を代表する店へと成長していきます。
米津恒次郎が手掛けた洋菓子はその美しい見た目と繊細な味わいで瞬く間に評判となり、小説や芝居の中でも取り上げられるほどの注目を集め、銀座分店の評価を一層高めたのです。
これらの新製品は単に外国の模倣品ではなく、日本人の嗜好に合わせた改良が施されており、その洗練された仕上がりは人々の記憶に深く刻まれました。
米津恒次郎が日本に伝えた洋菓子
帰国した恒次郎はフランスやイギリスで学んだ洋菓子の技術をいち早く日本に紹介しました。
ウェハースやサブレ、カルルス煎餅、ワッフルといった菓子は、当時の日本にはなかった新しい味覚として多くの人々を魅了します。
さらに英国式の重厚なフルーツケーキも導入され、これらの菓子は銀座の米津風月堂分店で次々と販売されるようになりました。
特に恒次郎が持ち帰った技術は製品の品質向上だけでなく、新しいマーケットの創出にもつながり、日本の菓子文化に大きな革新をもたらしました。
ゴーフルの発祥起源
原型となったお菓子はフランス風ワッフル
恒次郎が持ち帰ったフランス発祥のワッフルは元来パリッとした食感が特徴的です。
しかし、恒次郎は日本人の柔らかい口当たりを好む嗜好に合わせ、生地をスポンジ状に改良し、新しいスタイルのワッフルを作り上げました。
この柔らかいワッフルには折り曲げた生地の間にジャムを挟むという工夫が施され、日本の洋菓子市場に新たな魅力を提供しました。
日本独自のゴーフルに改良
昭和2年(1927年)、ワッフルの生地にさらなる改良が加えられ、薄く焼き上げた生地にクリームを塗って2枚合わせにした新製品「ゴーフル」が誕生します。
ゴーフルは軽い口当たりと美しい形状が特徴で日本独自の洋菓子として確立されました。
このゴーフルはドイツやチェコで見られる「カールスバーダー・オブラーテン」の影響を受けていると考えられます。形状や模様がゴーフルと似ており、恒次郎がそのデザインを参考にしたのかもしれません。
しかし、彼は単なる模倣に留まらず何度も試行錯誤を繰り返し、フランスやドイツの菓子文化を取り入れながらも日本人に合う味と形の特徴を持つ菓子として進化させました。
ゴーフルは単なる輸入菓子ではなく日本独自の創作菓子として愛されるようになり、このような創作の姿勢は、現在の洋菓子業界にも大きな影響を与えています。
まとめ
米津恒次郎はフランス料理と洋菓子の両面で日本の食文化に革新をもたらし、彼が持ち帰った技術や知識は日本における洋食・洋菓子の普及を後押ししました。
特にゴーフルは日本独自の創作菓子として広く愛されるようになり、恒次郎の功績として語り継がれています。
恒次郎の挑戦と努力は、単なる個人の成功に留まらず、今や日本の菓子業界全体の基盤を築くものです。その功績を振り返ることは、未来の菓子文化を形作る上での重要な手がかりとなるでしょう。