戦時中の乾パン|心と暮らしを支えた「命の糧」

第二次世界大戦中、日本の人々の命を支えた食べ物のひとつが「乾パン」でした。乾パンはもともと軍隊の兵士のために開発された保存食でしたが、やがて戦況の悪化とともに、一般の家庭にも配給されるようになります。

食糧が不足しがちだった戦時下において、乾パンは貴重なエネルギー源として大きな役割を果たしました。この素朴な食品には、当時の厳しい生活の記録と人々の努力が詰まっています。

本記事では、戦時中の乾パンの種類や特徴、そしてそれがどのように人々の生活に関わっていたのかを詳しく解説します。

目次

戦時中に登場した乾パンの種類と役割

戦時中の乾パンは、単なる保存食ではなく、日本人の暮らしを支える「命綱」のような存在でした。

食糧が手に入らない日々の中で、乾パンは飢えをしのぐ手段となり、また、硬く噛み応えがあるため、少量でも満腹感を得られる工夫も込められていました。

配給や軍用など、使われる場面によって形も硬さも異なる乾パンには、それぞれに込められた「生き抜くための知恵」があります。

配給用乾パン:一般家庭向けの主食代替

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主な用途一般家庭の主食代替
食感少しかため、噛み応えあり
保存性長期保存が可能
配給の背景米の不足による政府の代替食政策の一環

戦時中、お米やパンといった主食が不足する中で、乾パンはその代わりとして一般家庭に配給されていました。これは「配給用乾パン」と呼ばれ、比較的食べやすく、家庭での食事の中心を担っていました。

軍隊用「堅パン」:極限環境での携帯食

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食感非常に硬い(一般の乾パンとは別格の硬さ)
保存性極めて高く、長期間の携行が可能
携帯性小型で壊れにくく、軍靴などに入れて運ぶことができた
開発の背景江川英龍の「兵糧パン」を基に、携行食として軍用に再設計された

軍隊で使用された乾パンは、家庭用のものよりもさらに硬く、長期間保存できるように作られていました。これは「堅パン(かたぱん)」と呼ばれ、もともとは江戸時代末期に兵学者・江川英龍(えがわ ひでたつ)が考案した「兵糧パン」に由来するものです。

兵士たちはこの堅パンを軍靴(ぐんか)の中に入れて持ち歩くこともありました。靴の中に入れても崩れないほどの固さがあったためです。

なぜそんなに硬かったのか?

パンが極めて硬いのには理由があります。戦場では保存性と携帯性が最優先であり、湿気に弱かったり、簡単に砕けてしまうような食品は向いていません。硬いことで腐敗を防ぎ、多少の衝撃では壊れず、戦地でも安定した栄養補給ができることが求められたのです。

軍用型乾パン:生産体制と代用食の進化

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製造の背景戦争の長期化により、ビスケットから乾パンへの切り替えが進んだ
主な用途軍隊の食糧補給、主食の代用
生産体制大手製菓会社も参入し、大量生産が行われた
位置づけ菓子ではなく「代用食」としての重要性が増した

昭和12年(1937年)に日中戦争が始まると、日本は本格的に戦時体制へと移行します。この頃から、ビスケットや乾パンのような保存性の高い食品の需要が急増しました。

特に、軍隊用に大量に必要とされたのが「軍用型乾パン」です。これは、もともと菓子メーカーが製造していたビスケットの生産ラインを転用する形で作られました。たとえば、森永製菓ではこの時期に「軍用型乾パン」の製造を本格化させています。

戦時中の乾パンの製造と供給

戦時中、乾パンの製造と供給は全国各地の企業によって支えられていました。とくに軍用として使用された「堅パン」は、長期保存と携帯性に優れた食糧として重要視され、特別な製造技術が求められました。

三立製菓の「軍隊堅パン」

静岡県浜松市に本社を構える三立製菓は、1937年(昭和12年)から本格的に乾パンの製造を開始しました。同社が製造した堅パンは、福井県にあった旧日本陸軍「鯖江三十六連隊」などに納入されていました。

当時の名称は「軍隊堅麺麭(ぐんたいかたパン)」で、これは現在でも「カンパン」の原型として販売されており、戦時中の技術と記憶を今に伝えています。

ヨーロッパンキムラヤの堅パン

福井県鯖江市の老舗ベーカリー「ヨーロッパンキムラヤ」も、戦時中に軍用堅パンの製造を手がけていました。この店の創業は1927年(昭和2年)。東京・銀座に本店を構える「木村屋」から暖簾分けを受けて誕生しました。

初代店主の古谷伍一氏は、関東大震災をきっかけに東京から鯖江に移住し、地元でパンづくりを始めました。その経験と技術が、のちに軍隊用堅パンの生産へと繋がります。

堅パンの特徴と食べ方

戦時中に製造された堅パンは、一般的な乾パンよりもさらに硬く作られていました。以下はその特徴です。

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非常に硬いかなづちで叩いて割らなければ食べられないほどの硬さ
素朴な味わい香ばしい黒ごまの風味が特徴
食べ方の工夫が必要コーヒーやお茶に浸して柔らかくしてから食べることが一般的

これは、あくまで「非常時に命をつなぐための食べ物」であり、味や食感よりも保存性と携帯性が重視されたことがよく分かります。

戦時中の乾パン製造に見られた工夫

パンは、ただの「保存がきくパン」ではありませんでした。戦場という過酷な環境の中で、兵士の命を支える重要な食糧として、様々な工夫が施されていました。

保存期間を最大限に延ばす

旧日本陸軍は、乾パンの保存期間を「7年半」まで延ばすことを目標にしていました。通常のパンとは異なり、腐敗や品質の劣化を防ぐために、次のような点が工夫されていました。

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糖分・脂肪分を極力除く糖や脂肪は腐敗の原因になりやすいため、乾パンにはほとんど含まれていませんでした。
水分量を極限まで抑えるカビや微生物の繁殖を防ぐため、水分はできるだけ少なくしていました。

これらの工夫により、輸送時の品質保持や長期保存が可能となり、戦地でも安定した供給が実現されていたのです。

カラフルな金平糖の同封

パンには、味や栄養面での補助として「金平糖(こんぺいとう)」が一緒に入れられていました。金平糖とは、小さな粒の砂糖菓子で、長期保存が可能な甘味です。

当初は白い金平糖が採用されていました。しかし、シベリアなどの極寒地で配布した際、「氷のようで気が滅入る」といった兵士からの声がありました。

この意見を受け、後に「黄・青・ピンク・紫・緑」といった色鮮やかな金平糖が使われるようになりました。

色彩が加わることで、見た目に明るさや楽しさが生まれ、兵士の気持ちを少しでも和らげる工夫となったのです。

戦時中における乾パンの役割と価値

パンは、戦時中に多くの人々の命を支えた重要な食糧でした。単なる非常食ではなく、物資が乏しい時代の中で、人々の生活を守るために多くの役割を果たしていたのです。

生存を支える貴重な炭水化物源

戦時中、日本では配給制度が導入され、日常の食料も国家の管理下に置かれました。特に米や小麦といった主食は慢性的に不足しており、多くの家庭で十分に手に入れることが困難になっていきます。

こうした中で、乾パンは次のような理由から重要な食糧として位置づけられていました。

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保存性が高い水分を極限まで抑えているため、長期保存が可能。輸送や備蓄に適していました。
調理不要で食べられる火や水を使わずそのまま食べられる点が、配給や軍用に適していました。
炭水化物を多く含む主食が不足する中で、エネルギー源として大きな役割を果たしていました。

軍隊での乾パンと「堅パン」の活用

軍用の乾パンは「堅パン」とも呼ばれ、兵士が持ち運びしやすいよう工夫がされていました。中には、堅パンを軍足(ぐんそく=軍用の靴下)の中に入れて携帯していたという記録もあります。

これは、戦場での行動中にすぐに取り出せて食べられるようにするための工夫でした。乾パンの堅さゆえに崩れにくく、長距離の移動にも耐えられる保存食として重宝されたのです。

代用食としての位置づけと国家の統制

戦時中、日本では物資の確保と配分を円滑に行うために、いくつかの統制法が施行されました。具体的には以下のような法令です。

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臨時資金調整法軍需生産のために資金の流れを管理する法律。
軍需工業動員法必要な工業資源や労働力を軍需へ集中させる目的。
輸出入品等臨時措置法外国との物資のやり取りを統制し、国内供給を優先するための法律。

これらの統制の影響により、食料の原材料も不足が深刻化。米、小麦、砂糖、油などの供給が滞る中で、乾パンは「主食の代用」として重要性を増しました。原料の節約と効率的な供給が可能だったことから、多くの人々の食生活を支える存在となったのです。

戦時中の乾パンにまつわる体験談

パンは「非常食」や「代用食」として実用的に使われただけでなく、戦争を経験した人々の記憶や感情とも深く結びついています。ここでは、実際の体験談をもとに、その背景とともに乾パンの意味を探ります。

シベリア抑留と乾パンの価値

終戦後の日本兵とシベリア抑留

1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結しました。しかし、終戦間際にソ連が日ソ中立条約を破棄し、満洲(現・中国東北部)などに進軍。多くの日本兵や民間人がソ連軍に拘束されました。これがいわゆる「シベリア抑留」です。

抑留された人々は、厳寒のシベリアで過酷な労働に従事させられ、食糧事情も劣悪でした。日本から持ってきたわずかな携行食や衣類は、寒さと空腹の中で非常に貴重なものとなります。

乾パンと物々交換

当時の記録には、ソ連兵が日本人抑留者に対して、乾パン1個と引き換えに腕時計を求めたというエピソードが残されています。

これは決して誇張ではなく、乾パン1個が「時間を知る手段」よりも価値があると感じられるほど、食料が貴重だったことを示しています。

パンの長期保存性やカロリーの高さが、極限状態で生き延びるための「命の糧」だったのです。

病床での「最後の食事」

戦争末期の捕虜収容所の実態

日本がアジア太平洋戦争(第二次世界大戦の一部)で敗戦に近づく1944年頃から、戦況は急激に悪化。各地の前線では食糧や医薬品の補給が困難になり、兵士たちの健康状態も悪化していきました。

特に、捕虜として収容された兵士たちは、十分な食事も治療も受けられないまま病床に伏すことが多く、栄養失調や感染症によって命を落とす人が続出しました。

最期に思い出した「故郷の味」

ある証言には、収容所で病に倒れた兵士が、最期に口にした赤く着色された代用食を見て、「ふるさとのうどん」を思い出したという話が記録されています。その兵士は、生きる気力を保つことも難しい中で、ほんのわずかでも「懐かしい味」を思い浮かべながら息を引き取ったといいます。

この体験談からは、食べ物が人間にとって単なる栄養源ではなく、「心の支え」や「記憶の鍵」でもあることが伝わってきます。特に戦争という極限の状況下では、たとえそれが乾パンや粗末な代用食であっても、故郷や家族の記憶につながるかけがえのない存在だったのです。

まとめ

戦時中の乾パンは、ただの保存食ではなく、飢餓と隣り合わせの時代に人々の命をつなぐ“命綱”でした。軍用の「堅パン」や一般配給向けの乾パンは、それぞれの用途や時代背景に合わせて改良されながら、日本全体を支える食糧として重要な役割を果たしました。三立製菓やヨーロッパンキムラヤといった企業がその製造を担い、食糧不足という国家的課題に立ち向かった歴史は、今なお現代の非常食や災害対策の中に受け継がれています。乾パンの歴史をひも解くことは、食を通して当時の社会や暮らし、そして人々のたくましさを学ぶ手がかりにもなります。平和な時代を生きる私たちにとって、過去の苦難の中から生まれた知恵に耳を傾けることは、未来の備えにもつながる大切な一歩です。

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