なぜ長崎では砂糖が豊富だったのか?
江戸時代、日本はおよそ260年もの間「鎖国(さこく)」という政策を続けていました。
これは、他の国と自由に貿易したり、外国の人が日本に出入りしたりするのを厳しく制限する決まりです。
しかし、その中で唯一例外となっていたのが長崎でした。
長崎は特別な貿易の窓口だった
長崎の「出島(でじま)」という人工の島では、オランダと中国に限って貿易が許されていました。これは江戸幕府が厳しく管理した上で、外国とのつながりを一部だけ認めていた特別な場所です。
- 長崎の港に作られた人工島
- 外国人と接することができる唯一の場所
- オランダ人や中国人が住み、商売をしていた
日本の中で世界に開かれていたのは長崎だけだったため、さまざまな外国の品物が集まりました。その中には砂糖も含まれていたのです。
中国との貿易で長崎に砂糖が大量に入ってきた
オランダとの貿易だけでなく、中国との貿易も重要なルートでした。
中国からは以下のような品が運ばれてきました。
輸入されたもの | 説明 |
---|---|
砂糖 | 主にサトウキビを原料にした加工品 |
茶 | 緑茶や烏龍茶など |
絹 | 高級な布地として人気 |
薬品 | 漢方薬などの材料も含む |
いっぽう、日本からは銀や銅、海産物(干し魚など)を中国に輸出していました。
このような物々交換の中で砂糖が大量に日本に入ってきたのです。特に出島を通じて集まった砂糖は、他の地域では手に入りにくいほどの貴重品でした。
高価な砂糖をたくさん使用できた
当時の日本では、砂糖はとても高価で貴重なものでした。今のようにスーパーで簡単に買える時代ではありません。特に一般の人々にとっては贅沢品だったのです。
しかし長崎では輸入品が多く集まったため、比較的砂糖が手に入りやすい場所でもありました。そのため、長崎の人々の暮らしや料理には、他の地域に比べて砂糖を使う機会が多かったと考えられています。
当時使われていた砂糖の種類と使い道
江戸時代に輸入された砂糖には、いくつかの種類がありました。
これらの砂糖は、貴族やお寺、武士の間で使われることが多く、特別な行事やお祝いごとに使われることもありました。
九州に広がった「甘い味付け」の文化
長崎で砂糖が広く使われるようになると、その食文化が周辺地域にも影響を与えました。
特に九州地方全体で甘い味付けの料理が多く見られるようになったのは、長崎の砂糖が身近にあったからだと考えられています。
たとえば、以下のような特徴があります。
現在でも九州の料理には、甘みを強調したものが多いのは、この歴史的な背景によるものです。
「長崎の遠か」という言葉の意味
当時の人々の間では、「長崎の遠か(ながさきのとおか)」という言い回しが使われていました。
これは「砂糖をケチって少ししか使っていない」ことを皮肉った言葉です。
背景には、「長崎の砂糖はよく手に入るけど、それでももったいないから少ししか使わない」という風刺の意味が込められています。
長崎の砂糖と日本の歴史
砂糖が長崎に集まったことで、単にお菓子や料理に使われただけではありません。
砂糖の貿易は長崎の経済や文化にも大きな影響を与えました。
- 砂糖商人が財を成し、町の発展に貢献
- 商人の資金で新しい店や事業が生まれる
- 甘いものを楽しむ文化が広まる
このようにして、砂糖は長崎の発展を支えた重要な資源だったのです。
まとめ
長崎に砂糖が豊富だった理由は、鎖国時代に唯一外国と貿易できた特別な場所だったからです。
出島を通じて、中国やオランダから多くの砂糖が運ばれました。
この砂糖が長崎だけでなく、九州全体の食文化にも影響を与え、現在でも「甘い味付け」が特徴の料理が数多く残っています。
砂糖は単なる調味料ではなく、地域の歴史や文化のかたちを作ってきた大切な存在なのです。