私たちの祖先は、外からの文化や技術を決して拒絶することなく、まずはそれを素直に受け入れ、必要に応じて自らの感性に合うようにアレンジし、最終的には独自のものとして昇華してきました。
その柔軟性としたたかさこそが、日本の文化を豊かにしてきた要因でしょう。
こうした土壌があったからこそ、後に訪れる西洋文化や西洋菓子に対しても、大きな戸惑いを感じることなく意欲的に受け入れることができたのです。
さて、今回はお菓子そのものの話より前に、お菓子そのものを支える「甘さ」という要素に焦点を当ててみたいと思います。
菓子は甘いもの?
多くの人たちにとって「お菓子は甘いものである」というのは常識とも考えられているかもしれませんが、最近ではお菓子屋さんで「甘くないお菓子」を探すお客さんもいるようです。
もちろん酸味や塩味の効いたお菓子もありますし、スナック菓子のような激辛のものも別ジャンルとして存在しますが、基本的にお菓子とは「甘いもの」という概念が長らく一般的だったと思います。
では、なぜお菓子は「甘い」のでしょうか?
甘さとは、お菓子にとってどのような意味を持ち、どのようにその価値を支えているのか。甘みは単なる味覚の一つ以上の役割を果たしており、それがお菓子をお菓子たらしめる重要な要素であるのではないでしょうか。
この「甘さ」というテーマを掘り下げることで、現代のお菓子が抱える新しい価値観や課題についても触れることができればと思っています。
日本人の考える味覚
日本人は古くから味覚を「酸、苦、甘、辛、鹹」の五つで表現してきました。
いわゆる「五味」と呼ばれるものですが、その順序や解釈は文献や考え方によって異なることもあります。
興味深いのは、この五味の調和こそが美味しさの本質とされてきた点です。
ただし、五味のうち「辛」は味覚ではなく刺激に近いとされ、むしろ「旨味」に含めるべきではないかという説もあります。
こうした議論を聞くと難解に思えるかもしれませんが、実はそう構える必要はありません。
ここでは甘味を含む味覚について調べた内容を整理しながら、皆さまにわかりやすくお伝えしたいと思います。
甘味は「動物性」と「植物性」で分けられる
甘味を観察してみると、大きく動物性と植物性に分けられることがわかります。
たとえば動物性の甘味には蜂蜜や乳製品から作られる「蘇」が挙げられます。
一方、植物性の甘味としては飴や甘葛煎(あまづらせん)、砂糖などが代表的です。
このような分類は一見几帳面すぎるようにも感じますが、確かに理にかなっていると言えるでしょう。
動物性の甘味
「はちみつ」
動物性甘味の代表格である蜂蜜は、古代文明においても非常に珍重されていました。
特に古代エジプトではその価値が非常に高く、約5000年前のファラオ(王)は蜜蜂を象った印章を使用していたとされています。
また、ピラミッドなどの遺跡からは蜂蜜が発掘されることもあり、保存性の高さから古代の食文化における重要な位置づけがうかがえます。
一方で、日本における蜂蜜の歴史は、文献や遺跡に残された痕跡が少なく、そこまで古く遡れるものではありません。
しかし古代の日本人も自然界にある蜂蜜を口にしていた可能性は高いでしょう。
「蘇」
「蘇」は時に「酥」とも書かれ、古くから珍重されてきた食品です。
中村孝也氏の名著『和菓子の系譜』(国書刊行会刊)には、この「蘇」に関する記述がいくつか見られます。
その中で特に印象的なのが『涅槃経 聖行品』の一節を引用した部分です。この古代の教えではこう述べられています。
「善男子、馨(ちから)を尽くせば牛より乳を得、乳を生酥に、さらに熟酥に、そして醍醐を得る。醍醐は最上なり。これを服する者があれば、万病は除かれるであろう。」
これは、牛乳を濃縮し、さらに加工を進めることで「生酥」や「熟酥」、そして最高品質の「醍醐」を得られるという内容です。
現代的に解釈するなら、「生酥」は濃縮乳、つまりコンデンスミルクのようなものを指し、「熟酥」はさらに進化した形、そして「醍醐」はその究極形であるクリームやチーズのようなものと考えられます。
一部では「醍醐」はナチュラルチーズに近いという説もありますが、いずれにせよ、当時の人々は「蘇」や「醍醐」の口当たりの滑らかさや乳糖の自然な甘味も楽しみながら、既にそれを万病に効くと言い伝え、非常に贅沢で栄養価の高い食品と認識していたのです。
こうした食品を作るため、古代には専用の牧場が各地に設けられ、乳製品の生産が盛んに行われていたという記録もあります。
肉食を忌避していた当時の人々が、こうした形で動物性たんぱく質をしっかり摂取していたのは、非常に効率的かつ賢い方法と言えるでしょう。
蘇の味わいの素晴らしさは、現代でも「醍醐味」という言葉で表現されるほどでした。
「醍醐味」とは、物事の真髄や最高の楽しみを指しますが、その語源がこの乳製品に由来していると考えると、当時の人々がどれほどその味を称賛していたのかがわかります。
「蘇」や「醍醐」は、単なる食べ物以上の存在であり、文化や生活の中に深く根付いていたことが理解できます。
そして、その魅力や技術の一端は、現在の洋菓子や和菓子のルーツにもつながり、今も私たちの味覚の楽しみを支えているのです。
植物性の甘味
「飴」
「飴」といえば、だれもが子どもの頃から親しんできた甘いお菓子の代名詞です。
その起源や歴史に興味を抱く方も多いのではないでしょうか。
飴がいつ頃から存在したのか、そしてどのように発展してきたのかを辿ると、非常に興味深い物語が浮かび上がります。
日本書紀に登場
『日本書紀』(720年完成)第二巻には、神武天皇の時代(紀元前662年頃と伝えられる)に飴について言及した箇所があります。そこでは、丹生川のほとりで神を祀る儀式の中で次のような言葉が記されています。
「吾れ今、当に八十平釜を以て、水無くして離を造らん。飴成らば則ち吾れ必ず鋒刃の威を仮らずして天下を平げん。乃ち飴を造る。飴即ち自ら成る。」
これを現代語に訳すと、「私は今、多数の平瓦を使い、水を使わずに飴を作ってみる。もし飴ができたなら、武力を使わずとも天下を平定することができるだろう。さあ、飴を作ろう。そして、それが成功したなら自らの成功も確実となるだろう」といった内容です。
しかし、この時代の「飴」が具体的にどのようなものだったかは判然としません。ただ、『倭名類聚抄』(和名抄)には、「飴は米蔵を煎じて作るもの」と記されており、米を主原料として作られていた可能性が高いと考えられています。
延喜式に登場
日本書紀と同時期の『延喜式』には飴の作り方がさらに詳細に記されています。
当時の飴は、もち米やうるち米を砕いて煮詰め、そこに麦芽を加え、冷湯を入れて澱粉を糖化させ、さらに煮沸して布で濾すという手間のかかる製法で作られていました。
今日の飴がサトウキビやテンサイ(砂糖大根)から作られるのに対し、この時代の飴は米を原料としており、ここにも日本の食文化における米の重要性が見て取れます。
「甘葛」
古代日本の甘味料の一つに、「甘葛(あまづら)」があります。
この甘葛は「アマズラ」や「アマカズラ」とも呼ばれ、砂糖が一般に流通する以前には、広く人々の間で親しまれていました。
その人気の理由は、当時の他の甘味料に比べて製造が非常に簡単だったからです。
蜂蜜はその採取量が限られていたため、非常に貴重で、主に薬用として利用される程度でした。
また、飴もその製造過程が複雑で手間がかかったため、一般の人々にとって日常的な甘味料とは言えませんでした。
対して甘葛は、「甘葛藤」と呼ばれるツタ植物から抽出した樹液を煮詰めるだけで作ることができました。
奈良時代の東大寺正倉院文書をはじめ、『延喜式』や『今昔物語集』、『枕草子』など、数々の古典文献に甘葛の記録が残されています。
中世以前の日本において、甘葛はまさに甘味の代表格と呼ぶべき存在でした。
しかし、これは甘味の歴史における「前座」に過ぎません。この後、甘味の世界に革命をもたらす「砂糖」が登場することで、日本の食文化は大きく変化を遂げることになります。
(砂糖の伝来についてはまた後日に公開予定)
甘味の日本文化(奈良・平安時代)
甘味料は貴重品
日本人の文化と甘味に関する歴史は、記録を紐解くとその深さが垣間見えます。
たとえば砂糖や蜂蜜のような甘味料がどのように使われていたかを考察する際、『続日本紀』(797年)や『延喜式』(927年に編纂され、967年に施行された平安時代初期の律令細則)が重要な手がかりとなります。
これらの記録に甘味料が登場することから、当時は非常に貴重品であり、主に薬用として扱われていたと推測されています。
甘味料は薫物にも使用
『源氏物語』鈴虫の巻では甘味料が薫物として用いられたことが記されており、単に味わうだけでなく、その香りを楽しむ文化があったことがわかります。
「香を焚く」「香を聞く」という言葉が示す通り、香りの芸術は当時の生活に深く根付いていました。これに対しヨーロッパでは香水が主に体臭を消す実用目的で発展しましたが、日本の香文化は遥かに優雅で洗練されていたのでしょう。
日本人は甘味料の香りに対しても繊細で、単に「口にする」だけにとどまらず、香りそのものを楽しむという高度な文化を築いていたのです。
このような「香りを楽しむ」美意識は、現代でも世界に誇れる典雅な文化でしょう。