米津風月堂とは?創業から発展、そして現在まで

目次

米津風月堂とは

米津風月堂は明治時代に日本の洋菓子文化を導入して、その後の発展に大きな影響を与えた歴史的な老舗の菓子店です。この店の創業から現在に至るまでの歴史をたどることで日本の近代的な食文化の変遷の一部を理解することができます。

米津風月堂の創業~風月堂総本店からの分家~

米津風月堂の歴史は江戸時代に遡る風月堂総本店にその源を持っています。

風月堂は江戸時代から続く和菓子の名店で幕府や貴族からも信頼を受けていました。

日本の伝統的な和菓子作りを行っていた風月堂は明治時代に入ると次第に時代の変化に応じて方向転換をしていきます。

明治5年(1872年)、風月堂の番頭であった米津松蔵が風月堂の暖簾分けを受けて独立をして、「両国若松米津風月堂」として新たに開業しました。

この時、風月堂はまだ和菓子を中心とした店舗であり、松蔵自身も和菓子の製造に従事していました。

しかし松蔵はその後、洋菓子を取り入れることを決意して日本の食文化に新たな風を吹き込むこととなります。

米津恒次郎と洋菓子の導入

米津松蔵の次男である米津恒次郎は風月堂の経営を引き継ぐことになります。

恒次郎は和菓子だけでなく洋菓子に対する深い関心を抱いており、明治11年(1884年)にアメリカを経由してヨーロッパへ渡りました。

彼の目的はヨーロッパの洋菓子文化や技術を学ぶことでした。

米津恒次郎はロンドンとパリでの滞在を通じて、フランスやイギリスの洋菓子製造技術を習得。特にフランスの製菓技術に強く影響を受け、洋菓子の製造方法や材料の使い方について学びました。

帰国後、この知識を基に米津風月堂銀座分店を開店して、和菓子に洋菓子を取り入れることで日本の食文化に革命をもたらしたのです。

初期の洋菓子メニュー

米津恒次郎が学んだ洋菓子技術は帰国後に米津風月堂銀座分店で試されました。

最初に取り入れられた洋菓子はウェハースサブレカルルス煎餅ワッフルなどでした。

これらは当時の日本人にとって新しい味覚であり、驚きとともに受け入れられました。

英国式のフルーツケーキビスケットも紹介され、日本では初めて見る洋菓子として話題となりました。

ゴーフルの誕生と普及

米津恒次郎が注力したものとして有名なのはゴーフルという洋菓子の製造でした。

ゴーフルはフランスのワッフルを基に日本人の嗜好に合わせて改良された製品です。

恒次郎は薄くて柔らかな生地にクリームを挟むという形で、洋菓子としての新しいスタイルを作り出しました。

このゴーフルは日本独自の洋菓子として広まり、後に日本を代表する洋菓子の一つとなりました。

米津風月堂の銀座分店

米津恒次郎は帰国後に銀座に米津風月堂銀座分店を開店しました。

この店舗は和菓子と洋菓子を融合させた新しい形態の店として、多くの人々に親しまれることとなります。

銀座という立地の特性もあり、店舗は瞬く間に繁盛して東京の食文化の中心地である銀座における重要な拠点となりました。

米津風月堂銀座分店が提供する洋菓子は当時の日本人には新鮮で、フランスやイギリスの影響を受けつつも、日本人の口に合うように工夫された味わいが特徴でした。

この店で提供される洋菓子は他の店舗とは一線を画すものであり、その美しい見た目と繊細な味わいは多くの客を引きつけました。

風月堂の名前を受け継ぐ店舗

戦後、米津風月堂は経営が引き継がれ「銀座風月堂」や「東京風月堂」といった名前で新たに展開されました。

他にも米津風月堂の成功を受け「神戸風月堂」や「長野風月堂」など、様々な地域で「風月堂」の名前を受け継ぐ店舗が開店しました。

これらの店は米津風月堂が築き上げた洋菓子文化を継承し、地域ごとの特色を持ちながらも米津風月堂の理念を受け継いでいます。

しかし、すべての「風月堂」が米津風月堂の直系であるわけではなく、同名の店舗が存在するため注意が必要です。

米津風月堂の功績

米津風月堂の最大の功績は洋菓子を日本化し、日本人の嗜好に合わせた形で普及させたことです。

特にゴーフルのような独自の製品は日本の洋菓子として定着し、現在も多くの店舗で販売されている定番の菓子となっています。

日本の文化と食生活に適応した新しい形態の食べ物として提供するようなアプローチは、日本における洋菓子文化の発展に欠かせない役割を果たしました。

米津風月堂の店舗は当時の文化的な変化を反映しており、時代の最先端を行く食文化の発信地となったのです。

まとめ

米津風月堂は明治時代に日本へ洋菓子文化を本格的に導入した先駆者として、その後の日本の食文化に大きな影響を与えました。特に米津恒次郎が創り出したゴーフルは、日本の洋菓子文化における重要な位置を占め、現在でも多くの人々に親しまれています。

米津風月堂の歴史は、単なる洋菓子の輸入にとどまらず伝統的な和菓子から洋菓子への移行を通じて、新しい文化の受け入れと日本化の成功例を示しています。

現在でも「米津風月堂」の名前やその影響を受けた店舗が多く存在し、日本各地で洋菓子を提供し続けています。この歴史と影響は、これからも日本の洋菓子業界の礎として語り継がれ、未来の世代に引き継がれていくことでしょう。

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