サクマ式ドロップスの発祥起源
明治時代、日本の洋菓子業界ではイギリスのモルトン社製フルーツドロップが人気を博していました。
このキャンディは果汁の芳醇な香りで日本人にとっては憧れの存在でした。
その味わいに感動した日本の菓子職人たちは、同様の製品を自国で作りたいという熱意を持つようになります。
その中で最初に国産ドロップスの製造を手掛けたのが東京芝口に店を構えていた岸田捨次郎でした。
岸田捨次郎と芥川鉄三郎のドロップ研究
岸田捨次郎がドロップス製造に挑んだのは明治20年代後半のことです。
同時期に芥川鉄三郎もドロップスの研究を始めていましたが記録によると岸田がわずかに先行していたようです。
また、長井長左衛門が当主を務める蟹屋も同じくドロップスの製造に取り組みました。
この時期、ドロップスは単なるお菓子ではなく技術力を競い合う重要な製品として位置付けられていました。
「日本洋式製菓合資会社」の設立
明治32年、岸田捨次郎は志村吉蔵、広瀬長吉とともに「日本洋式製菓合資会社」を設立しました。
この法人組織は日本のお菓子業界で初の試みとされています。
岸田たちはそれぞれの得意分野を活かして製品開発に励みましたが、残念ながら経営は思うように進まず、わずか半年で解散となります。
その後も菓子業界では同様の試みが続きましたがなかなか成功には至りませんでした。
「新杵」のよるドロップス製造の研究
横浜で活躍していた桐沢枡八は明治8年に「新杵」という屋号で菓子店を開業しました。
彼は接客の上手さで人気を博して横浜から東京、さらに長野や大磯など多くの地域に店舗を展開しました。
その経営手腕の一環として桐沢は海外視察を行い、明治26年にはシカゴ博覧会を訪れます。
ここでドロップ製造機を購入して製造技術の研究に取り組みます。
そして明治27年、桐沢枡八は日本橋の店舗にドロップ製造機を設置して本格的な製造を開始しました。
残念ながら製品の品質や製造効率の問題から成功には至りませんでしたが、桐沢の情熱は多くの職人に影響を与えました。
「三港堂」によりサクマ式ドロップスが誕生
新杵で修行を積んだ佐久間惣治郎は明治41年に独立して神田八名川町で「三港堂」を開業しました。
彼は先輩たちが果たせなかった国産ドロップスの製造に挑戦します。
佐久間は改良を重ね、味や品質を向上させる独自の製法を確立しました。
そして、ついに「サクマ式ドロップス」を世に送り出し、大成功を収めました。
サクマ式ドロップスの特徴とその後の展開
「サクマ式ドロップス」という名称には佐久間惣治郎の職人としての誇りが込められています。
この製品は太平洋戦争中に一度廃業を余儀なくされましたが、戦後には再び復活しました。
昭和22年、佐久間製菓とサクマ製菓という二つの会社がそれぞれのドロップ製造を引き継ぎます。
サクマ式ドロップスの終了
サクマ式ドロップスは2023年1月20日に佐久間製菓の営業中止により歴史に幕を閉じました。
しかし、その製品がもたらした影響や業界への貢献は色褪せることなく、多くの人々に愛された歴史的なキャンディとして記憶され続けています。
サクマ式ドロップスが菓子業界に与えた影響
サクマ式ドロップスの成功は、キャンディ業界全体に影響を与えました。
昭和24年には「七色の飴味電橋」が発売され、昭和30年には「カンロ飴」が登場します。
これらの製品は、日本のキャンディ文化を豊かにする重要な存在となりました。