岩倉使節団が見たチョコレート工場
岩倉使節団の派遣
明治4(1871)年、岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団がアメリカへ渡り、文明開化を推進するための視察旅行を開始。この使節団には、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、山口尚芳といった明治政府の要人が参加していました。彼らは西洋の文化や技術を取り入れるため、政治、産業、教育など幅広い分野で学びを深めました。
パリでのチョコレート工場視察
明治6(1873)年、彼らがヨーロッパを訪問した際、パリのチョコレート工場を視察しました。この工場では、一貫した機械生産によるチョコレート製造の技術が使われており、彼らにとって驚くべき先進技術でした。当時の日本では、チョコレートの製造技術どころか、食べ物としての認知すら進んでいなかったため、この視察は大きな衝撃を与えました。
米津風月堂のチョコレート製造
米津風月堂の当主:米津松造
パリでの視察の情報が国内に伝わると、いち早くこれに着目したのが米津風月堂の当主、米津松造でした。米津風月堂は江戸時代から続く和菓子店で、時代の変化に敏感であった松造は、チョコレートという新しい洋菓子に挑戦する決断を下しました。
当時の日本ではチョコレートの製造に必要なカカオ豆の輸入や機械設備が限られており、米津松造がどのように製造したのかは明確ではありません。ただし、原材料を輸入して加工する形で製品化した可能性が高いと考えられています。
日本初のチョコレート製造!「貯古齢糖」と「猪口令糖」
米津松造はチョコレートの研究と製造に取り組み、明治11(1878)年12月24日付の『假名讀新聞』で、”貯古齢糖”と称するチョコレートの広告を出しました。また、翌日の『郵便報知新聞』では、洒落た名称として”猪口令糖”が使われました。
チョコレートとクリスマス
米津風月堂がチョコレートを初めて宣伝した日がクリスマスであることは注目すべき点です。当時の日本では、キリスト教が解禁されて間もない時期であり、クリスマス自体も一般的な行事ではありませんでした。
クリスマスに合わせて広告を打つことで、チョコレートを単なる食品ではなく、西洋文化そのものとして訴求しました。この戦略は、当時の日本人にとって新鮮であり、結果的にチョコレートの普及に寄与しました。
日本の菓子文化への影響
米津風月堂によるチョコレート製造は、日本初の本格的なチョコレート菓子として注目されました。その後、明治時代を通じて他の菓子店もチョコレート製造に取り組むようになり、国内での生産が徐々に広がりました。
現在では、チョコレートはバレンタインデーやクリスマスといった行事に欠かせない存在となっています。この背景には、米津松造のような先駆者たちの努力がありました。彼らの活動が、新しい食文化の創造に大きく貢献したことは間違いありません。